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「紫式部日記」解読
◇広島の演出家、三澤憲治による「源氏物語ウェブ書き下ろし劇場/『紫式部日記』解読 「紫式部日記」解読
紫式部日記
1008年(寛弘5年)
紫式部36歳


上巻

〔1〕土御門邸の秋―寛弘5年7月中旬

 土御門邸(左大臣藤原道長の邸宅)の景観描写
・道長の長女彰子中宮は7月16日夜から里下りしている。21歳で妊娠9ヶ月の身重。
・12人の僧が中宮の安産祈願のため、「大般若経」「最勝王経」「法華経」を読誦。

 「中宮様は女房たちのとりとめもない話をお聞きになり、身重で苦しいはずなのに、そんな様子はひとつもおみせにならない。この思いやりのあるご立派な様子は、いまさら称えるまでもないことだが、憂世のなぐさめには、こういう素晴らしい方には求めてでもお仕えすべきだと、日ごろのふさいだ気分を忘れている自分は、考えてみればとても矛盾している」

 この「紫式部日記」の冒頭のように、紫式部には、現象に従う心情と、本質を見通す理性との共存がある。

〔2〕省略

〔3〕朝露のおみなえし

 ある朝、殿(道長43歳)は女郎花を一枝折って、几帳越しにわたしに見せられる。そのお姿の立派さにくらべ、寝起きの顔が見苦しいので、殿が「この花の歌、遅くなってはいけないだろうな」と言われたのをよいことにして、硯のそばに行った。

 をみなえしさかりの色を見るからに露のわきける身こそ知らるれ
 (盛りの女郎花に比べ、自分の容貌の衰えは・・・)

「おお早い」とにっこりされて、殿は硯を取り寄せになる。

 白露はわきてもおかじをみなへしこころからにや色の染むらむ
 (女は心のもちようで美しくなれるよ)

 女郎花を見せる趣向や歌のやり取りは、単なる主人と女房以上の関係か?

〔4〕殿の子息三位の君

 三位の君(道長の長男頼通17歳)がいらっしゃって、「気立てのいい女性は、めったにいないものだね」なとど、男女関係の話をしておられる様子は、世間の人が言うようにまだ若いなどとは言っておられず、こっちが恥ずかしくなるほど立派である。あまり打ち解けた話にならない程度で退出されたさまは、それこそ物語で褒めている男君そっくりだ。
 このくらいのちょっとしたことで、後々ふと思い出されることもあるのに比べ、その時はおもしろいと思ったことでも時がたつと忘れてしまうことがあるのは、いったいどういうわけだろう。

 朝の道長の戯れと夕の頼通の端正なふるまい。この父子の対照は、物語の光源氏と夕霧の対照になぞらえられる。

〔5〕〔6〕省略

〔7〕宰相の君の昼寝姿―8月26日

 中宮様の御前からもどる途中、弁の宰相の君(藤原道綱の娘豊子)の部屋をのぞいてみると、ちょうどお昼寝の最中。萩や紫苑の色とりどりの袿に、濃い紅の艶やかな打衣をはおって、顔は襟の中に入れて、硯箱を枕にして寝ていらっしゃる。その額がとても可愛らしくなよやかで美しい。まるで絵に描いてあるお姫様のようなので、口を覆っている袖を引っぱって、「まるで(こまのの)物語のヒロインのよう」と言うと、宰相の君は目をあけて、「気でも狂ったの、寝てる人を起こすなんて」と言って起き上がられた顔が、思わず赤くなってたのは、ほんとに美しかった。
 ふだんでも美しい人が、こんなことで特別に美しく見えた。

 昼寝姿に物語のヒロインを連想して思わず声をかけてしまう。つまり、現実の中に物語世界を発見して感動してしまう紫式部は、熱心な物語読者であり、また物語作者としての資質もうかがわれる。

〔8〕重陽の菊の着せ綿―9月9日

 重陽の節句の9月9日、兵部のおもと(女房の敬称)が菊の着せ綿を持ってきて、「殿の北の方(鷹司倫子)がこれを特別にあなたにって。これでよく顔や体をぬぐって、老いを取り除きなさいって」と言うので、

 菊の露わかゆばかりに袖ふれて花 のあるじに千代はゆづらむ
 (わたしはちょっと若返れば・・・千代の長生きは北の方に)

 と詠んで、着せ綿を返そうとしたら、「北の方はもう帰ってしまわれたわ」というので、しかたなくそのままにしてしまった。

※着せ綿 重陽の節句の前夜、菊の花に真綿を覆っておき、あくる朝夜露に濡れて菊の香りがうつった綿で顔や体をぬぐうと老いが除くと信じられた。

 遠い血縁関係の倫子の長寿を祝う心。

〔9〕同日の夜、中宮産気づく

 中宮様はいつもよりお苦しい様子なので、加持などもなさるところなので、なんだか落ち着かなくて(中宮の)几帳の中へ入った。
 そのうち人が呼んでいるというので、自分の部屋に下がって、しばらく休もうと思って横になったところ、寝てしまった。夜中ごろに中宮様が産気づいたと大騒ぎしている。

〔10〕修験祈祷のありさま―9月10日

 10日の夜が明けるころ、御座所の調度や設備や衣装などが白一色に変えられる。中宮様は白木の御帳台に移られる。殿をはじめ、ご子息や四位五位の人々が騒ぎながら、御帳台の垂絹や帳台の中に敷く上筵(うわむしろ)や茵(しとね)などを運ぶさまは、ほんとに騒がしい。
 中宮様は一日中とても不安そうに、起きあがったり横になられたりしながら過ごされた。修験僧は物の怪を調伏しようと大声で祈り続けている。ここ数ヶ月詰めている邸内の僧たちはいうまでもなく、諸国の寺をたずねて、修験僧という修験僧は一人残らず参集し、その祈祷に三世(前世・現世・来世)の仏も調伏のためにどんなに空を飛びまわってることだろう。陰陽師もあらゆる人を集めて祈らせたので、八百万の神々も聞いてくださらいわけがないだろう。

※当時、病気や難産の原因は物の怪の祟りとされた。

○御帳の東の間―内裏の女房
○西の間―物の怪がのりうつった人々
○南の間―僧正・僧都という高僧
○北の御障子と御帳の間―40数人の人々

 実家から来た人たちは、せっかく来たのに邪魔者あつかいにされて座らせてもらえず、裳の裾や着物の袖が人混みでどこにあるかわからない。
おもだった古参の女房たちは、中宮様の容態を案じて、泣きながらおろおろしている。
 
 中宮のお産直前、権力・財力をあげての安産祈願。騒動の中での式部の冷静な観察力。

〔11〕安産を待ち望む人々―9月11日

 11日の明け方にも、北側の襖を二間とりはらって、中宮様は難産のために場所を忌み嫌って、北廂の間に移られる。御簾などもかけることができないので、御几帳を重ね立てて、その中にいらっしゃる。観音院権僧正勝算、定澄僧都、権法務済信権大僧都などがそばについて加持される。院源僧都(第26代天台座主)が、きのう殿が書かれた安産願いに、さらに尊い言葉を書き加えて、読み上げる言葉が、身にしみるほど尊く、心強く思われるのに、そのうえ殿が一緒になって仏の加護を祈られるのはとても頼もしく、まさかのことはないだろうと思うが、やはりひどく悲しいので、みんなは「ほんとに不吉な」「そんなに泣くな」などと言い合って、涙をおさえることができないのである。
 こんなに人が多くては、中宮様もなおさら苦しいだろうと、殿は女房たちを南や東の間に出されて、どうしてもいなければならない人たちだけが、この二間の中宮様の側に控えている。殿の北の方、讃岐の宰相の君(豊子)、内蔵の命婦(道長の五男教通の乳母)が御几帳の中に、それに仁和寺の僧都、三井寺の内供を呼び入れられた。殿が万事に大声で指図される声に、僧も圧倒されて読経の声も静になったように思われる。
 もう一間にいる人たちは、大納言(中宮女房、廉子)、小少将(中宮女房、源時通の娘)、宮の内侍(中宮女房、橘良芸子)、弁の内侍(中宮女房、藤原義子)、中務(中宮女房、中務少輔源至時の娘)、大輔の命婦(中宮女房、越前守大江景理の妻)、大式部(道長家女房)のおもと、この人はこの邸の帝の口宣を蔵人に伝える人です。いずれも長年お仕えしている人ばかりで、心配して取り乱しているのはもっともだが、まだ中宮様に仕えて日が浅いわたしなど、比べものにならないほど大変なことだと思われた。
 また、わたしたちの後ろに立ててある几帳の向こう側に、尚侍(道長の次女妍子当年15歳)の中務の乳母(藤原惟風の妻高子)、姫君(道長の三女威子当年10歳)の少納言の乳母(道長家女房)、幼い姫(道長の四女嬉子当年2歳)の少納言の乳母(道長家女房藤原泰通の妻)などが無理に入り込んで、二つの御帳台の後ろの細い通路は容易に通ることができない。すれちがったり、動いたりする人は、お互いの顔など見分けられない。殿のご子息たち(頼通17歳、教通13歳)や、宰相の中将(藤原兼隆)、四位の少将(源雅通)などはもちろん、左の宰相の中将(源経房40歳)、宮の大夫(中宮職の長官、藤原斉信)など、いつもはあまり親しくない人たちも、几帳の上からのぞいたりして、泣きはらした目など見られるのも、恥もなにもかも忘れていた。頭上には魔除けの米が雪のように降りかかっているし、混雑でしわになった着物がどんなに見苦しかっただろうと、後になって考えるととてもおかしい。

 道長の姿を浮かび上がらせる文章。

〔12〕若宮の誕生
 
 中宮様のお産が重いので、仏の加護を頼んで髪を形式的に剃って受戒(仏道でいう殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒の五戒)をして安産を願っている間、途方にくれて、どうしたことかと、悲しいときに、安らかに出産されて、後産のすまない間、あれほど広い母屋から廂の間、縁の欄干までいる僧侶も俗人も、もう一度大声でお祈りをして礼拝する。
 東面にいる女房たちは、殿上人にまじって座るような状態で、小中将(中宮女房)が左の頭の中将(近衛中将で蔵人頭を兼ねた者)とばったり顔をあわせてあきれていた様子を、後になってみんなが言いだして笑う。この小中将はいつも化粧がいきとどいた美人で、この時も明け方に化粧をしたのだが、泣いたため、化粧くずれがして、あきれるほど変わってしまい、とてもその人とは思えなかった。あの美しい宰相の君も顔が変わってしまっていることも、ほんとうに珍しいこと。まして私などはどんなであったか。でも、そのときに顔をあわした人の様子が、お互いに思い出せないのはよかった。
 いよいよ出産なさる時、物の怪がくやしがってわめく声はなんと恐ろしいことか。
 (中略)

 午の刻に、空晴れて、朝日さし出でたる心地す。
 安産でいらっしゃった嬉しさはくらべようがないが、その上皇子でいらっしゃった喜びといったら、ひととおりではない。きのうは一日中泣いていて、今朝も泣いていた女房なども、みな局に引きとって休む。中宮様には年配で産後にふさわしい人が付き添う。

 若宮誕生の喜びの表現。ここに道長の栄華の基礎が固められる。

[13]人々のよろこび

 殿も北の方も、あちらの部屋に移られて、この数ヶ月御修法や読経に奉仕したり、またきのうときょう参集した僧侶たちにお布施をたまわったり、医師や陰陽師などで効験があった者に褒美(衣類・絹・布など)をお与えになったり、内々では沐浴の儀式の準備をあらかじめさせていらっしゃるらしい。
 
 (中略)
 
 殿は縁先に出られて、随身に落ち葉などで埋もれた遣水の手入れをさせ、まわりの人々も、いかにものどかで心地よさそうである。心配事のある人も、このときばかりはふと忘れてしまいそうで、中宮様は得意気な笑顔をなさるわけではないが、嬉しさはだれよりもで、しぜんと顔に表れるのもうなづける。宰相中将は権中納言とふざけて、東の対屋の縁側にいらっしゃる。

〔14〕〔15〕〔16〕〔17〕省略

[18]五日の御産養―9月15日の夜

 誕生五日目の夜は、殿の御産養(おんうぶやしない)。十五夜の月がくもりなく美しい上に、池の水際近くにかがり火を木の下にともして、屯食を50具立てる。身分の低い男たちがしゃべりながら歩きまわる様子なども、晴れがましさを際立たせているようだ。主殿寮の役人たちが松明をかかげて並んでいて、昼のように明るいので、あちこちの岩の陰や木の下に集まっている上達部の随身でさえ、おのおの話し合っている話題は、このような世の中の光といえる皇子が誕生なさることを、かげながら思っていて、じぶんたちの望みどおりであったという顔つきで、相好をくずして、うれしそうにしている。まして、この土御門の人たちは、五位の者までもが、来客に会釈して行ったり来たりして、いそがしそうな様子をして、得意顔である。
 
 権勢に盲従する下役たちを描写する紫式部の辛辣な眼。

 中宮様にお膳をさしあげるというので、女房8人、白一色に装束して、髪を結い上げて、白い元結をして、白銀の御盤をささげて一列になって入っていった。今夜の給仕役は宮の内侍(中宮女房、橘良芸子)、堂々としていて、とても美しい容姿に、白元結にいっそう際立って見える髪の下がりは、いつもより好ましく、扇からのぞかれる横顔は、ほんとうに美しかった。
 この夜の8人(源式部<げんしきぶ>・小左衛門<こざえもん>・小兵衛<こひょうえ>・大輔<たゆう>・大馬<おおうま>・小馬<こうま>・小兵部<こひょうぶ>・小木工<こもく>)はみな美しい若女房ばかりで、向かい合って座っている様子は、見ばえのあるものでした。いつもは中宮様にお膳をさしあげるとき、髪を結い上げることはしているのだが、このような晴れがましいときなので、わざわざしかるべく女房を選ばれたのに、人前に出るのがつらいとかいやだとかいって、嘆いたりして、まったく縁起が悪いことだと思われた。

 美しさを褒め称えたと思ったら、大役を恥ずかしがった若女房たちへの不満。紫式部特有の表現。

 めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千代をめぐらめ
 (おりからの十五夜の月に縁のある言葉を用いて、皇子誕生の慶賀の意をあらわした歌))
 「さかづき」に「栄月」を、「もち」に「望」をかけ、「さしそふ」に「光がさす」と「杯をさす」の両用をきかせる。「光」「さしそふ」「もち」「めぐる」は月の縁語。

〔19〕月夜の舟遊び―9月16日

 つぎの日の夜、月がとても美しく、そのうえ時候も風情あるときなので、若い女房たちは船に乗って遊ぶ。色とりどりの衣装を着ているときよりも、白一色の装束をつけている容姿や髪が、清浄で美しく見える。
 (中略)
 一部の女房たちは(船に乗らないで)そっとぬけて残ったが、やはりうらやましいのだろうか、池のほうに目をやっていた。真っ白な白砂の庭に、月の光が照り返し、女房たちの白装束の姿や顔つきも、風情がある。 
 (中略)
 内裏の女房たちの突然の訪れに、船に乗っていた若い人たちも、あわてて家の中に入った。殿が出てこられて、なにもないご様子で、歓待したり、冗談をおっしゃる。内裏の女房たちへの贈物を、それぞれの身分に応じて与えられる。

 黄、白、黒のシンプルなカラー表現。

〔20〕7日の御産養―9月17日

 誕生7日目の夜は朝廷主催の御産養。蔵人の少将を勅使として、天皇から若宮に贈られる目録を、柳筥(やないばこ)に入れて来られた。中宮様はそれをご覧になると、そのまま宮司に返される。歓学院の学生たちが、整然と威儀を正して歩いてくる。その参賀の人々の連名簿などを、中宮様にご覧にいれる。中宮様はこれもすぐに宮司に返される。禄なども賜れるだろう。今夜の儀式は朝廷の御産養なので一段と盛大で、大騒ぎしている。

 ※歓学院は左大臣冬嗣が藤原氏の子弟教育のために開いた私学校。氏の長者の家に慶事があるときは、学生が別当(長官)に引率されて参賀する。そして、この参賀には、練歩除歩などの一定の作法があり、これを「歓学院のあゆみ」といった。

 中宮様の御帳台をのぞいたところ、このような国の母として崇められる麗しい様子でもなく、少し苦しげで面やつれしてお休みになっておられる様子は、いつもより弱々しく、若くて美しい。小さな灯炉が御帳台の中にかけてあるので、すみずみまで明るく、美しいお肌が一段とすきとおるようにきれいで、ふさふさとした髪は、横になって乱れないように元結でくくられると、いっそうふさふさとして見事である。こんなことを言うのも、いまさらという気がするので、よく書き続けることができません。
 だいたいの儀式は、先日5日の夜の御産養と同様である。
 (中略)
 八日目の日、女房たちは、色とりどりの衣装に着替えた。

 中宮に慕わしさをつのらせる紫式部。
 
〔21〕9日の御産養―9月19日の夜

 誕生9日目の夜は、東宮の権の大夫(道長の長男、藤原頼通 )が御産養を奉仕される。白い御厨子一対に、お祝いの品々がのせてある。儀式は変わっていて現代ふうである。
 (中略)
 今夜は、(白一色の几帳から)朽木形の模様のある几帳をいつもどおりに立てて、女房たちは濃い紅の打衣を着ている。それが今までの白装束を見なれた目には目新しく、奥ゆかしくて優美に見える。すきとおった薄物の唐衣を通して、つやつやした打衣が見える。そして思い思いの衣装に、一人ひとりの姿もはっきり見える。

 白から色彩への転換。「めずらしく」「なまめいて」「つやつやと」という表現

〔22〕初孫をいつくしむ道長

 10月10日あまりまでも、中宮様は(産後の養生のため)御帳台から出られない。女房たちは、その東母屋の西寄りにある御座(おまし)に、夜も昼もひかえている。
 殿が夜中や明け方にもいらっしゃっては、乳母のふところをさがして若宮をのぞかれるのだが、乳母がうちとけて寝ているときなどは、はっとして目をさますのも、ほんとうに気の毒なことだ。若宮はなにもわからないのに、殿が抱き上げて可愛がられるのは、もっともで結構なことである。
 ある時、若宮が殿におしっこをひっかけられたのを、殿は直衣の紐をといて脱がれ、御几帳のうしろで火にあぶって乾かさられる。「ああ、若宮のおしっこに濡れるのも、いいものだな。この濡れたのを、あぶるのも、ほんとうに思い通りにいったような気持ちだ」と喜ばれる。

 初孫におしっこをかけられて喜ぶ道長の人間性に共感する紫式部。

〔23〕中務の宮家との縁

 中務(具平親王は村上天皇第七皇子。当年45歳 )の宮家のことを、殿は一生懸命(道長は長男頼通と具平親王の娘隆姫との結婚を切望)になられて、私をその宮家に縁故のある者と思われて、いろいろ相談なさるのも、ほんとうのところ、さまざまな思案にくれることが多かった。

 ※道長は宇多帝の皇孫源雅信の娘倫子、醍醐帝の皇子源高明の娘明子を妻室に迎えている。

 道長がさらに望むものは皇室の尊貴の血統。式部はこれを複雑な思いで見ている。

[24]水鳥に思いをそえて

 一条天皇の土御門邸への行幸が近くなったので、邸を一段と手入れして立派にされる。見事な菊の株を、あちこちからさがしては、掘って持ってくる。さまざまに美しく色変わりした菊も、黄色が見どころの菊も、さまざまに植えてある菊も、朝霧の絶え間に見わたした光景は、昔からいうように、老いもどこかに退散してしまうような気がするのに、どうしてかわたしは・・・・・・わたしの物思いがもう少しふつうであったならば、風流を楽しんで若々しくして、この無常な世を過ごせるのに、どういうわけか、めでたいことやおもしろいことを、見たり聞いたりすると、ただもうつねづね思っている出家遁世に、ひきつけられるほうが強くて、憂鬱で、ままならず、嘆かわしいことばかり多くなって、とても苦しい。でも、今はなにもかも忘れてしまおう、いくら思ってもしょうがないことだし、罪深いことだ、などと、夜が明けると、ぼんやり外をながめて、池の水鳥たちがくったくなく遊んでいるのを見る。

 水鳥を水の上とやよそに見むわれも浮きたる世をすぐしつつ
 (水鳥を他人事とは思えない。このわたしだって同じように、浮ついた日々を過ごしている)

 あの水鳥たちも、楽しそうに遊んでいると思えるが、その身になってみれば、きっと苦しいだろうと、ついわが身と重ねてしまう。

 現世的栄華に溶け込めない紫式部。そこに身をおけばおくほど、仏道にひかれてゆく自分をどうすることもできない。
 キーワード「なぞや(慨嘆)」
 華麗な宮廷社会と自己との隔絶に懊悩する紫式部。

 これ以後、「源氏物語」は、ブラック(暗黒)の世界に突き進むのではないか? 劇作「紫式部考」の第3部ブラック編の幕開きはこの場面を採用することにしよう。

[25]時雨の空

 小少将の君(紫式部と特に親しかった中宮女房、源時通の娘)の、手紙の返事を書いていると、時雨がさっと降ってきたので、使いの者も返事を急ぐ。「わたしだけでなく、空の景色もざわついてる」と返事の末尾にそえて、拙い歌を書いてあげた。もう暗くなっているのに、返事がきて、紫色に濃く染めた雲紙に、

 雲間なくながむる空もかきくらしいかにしのぶる時雨なるらむ
 (時雨はなにを恋いしくて降っているのでしょう。それはあなた恋しさのわたしの涙の時雨みたい)

 前の手紙にどんな歌を書いたのか思い出せないままに、

 ことわりの時雨の空は雲間あれどながむる袖ぞかわくまもなき
 (時節柄降る時雨の空は雲の絶え間もあるけれど、あなたを思うわたしの袖はかわくひまもないの)

 小少将の君は、内面の苦悩も語り合え、慰めあえる無二の親友。

[26]土御門邸行幸―10月16日

 一条天皇行幸の当日、新しく作られた船を、殿は池の水際に寄せてご覧になる。竜頭や鷁首の船が、生きている姿が想像されるほどで、鮮やかに美しい。
 行幸は朝8時頃ということで、明け方から女房たちは化粧をして用意をする。上達部の席は、西の対屋なので、こちらの東の対のほうはいつもどおりで騒がしくない。あちらの内侍の督(道長の娘妍子)では、中宮さまのほうより女房たちの衣裳なども、たいそう立派に支度なさるらしい。
 明け方に、小少将の君が実家から帰ってこられた。一緒に髪をといたりする。例によって、行幸は8時だといっても、遅れて日中になるだろうと、ついぐずぐずしていて、扇が平凡なので、別にあつらえたのを、持ってきてほしいと待っていたところ、行幸の鼓の音を聞いて、あわてて御前に参上するのもみっともないこと。
 天皇の御輿を迎える船楽が、とてもおもしろい。御輿をかつぎ寄せるのを見ると、かつぐ人が、身分が低いながら、階段をかつぎ上がって、ひどく苦しそうにうつぶせているのは、どこがわたしの苦しさと違っているのか。高貴な人々にまじわっての宮仕えも、身分に限度があるにつけて、ほんとうにたやすいことでないと(かつぐ人を)見る。

 人並みにあつかわれない御輿をかつぐ人の苦しげな姿に、人間共通の苦悩を見る。物語作家ならではの透徹した眼。
 
 (中略・正装した女房たちの詳細な記述)

 ふだんは整っていない容貌がまじっていれば見分けがつくものだが、このようにみんなが精一杯身なりをつくろい、お化粧して、負けないように飾りたてているのは、女絵の美しいのにそっくりで、ただ老けているとか若いとか、髪が衰えているとか生き生きしてるかのちがいだけが、目につく。これでは顔を隠した扇からのぞいている額が、不思議に上品にも下品にも見せてしまうものだ。こういう中にあって優れていると目につく人こそ、とびっきりの美人なのかも。
 (中略)
 殿が若宮を抱かれて一条天皇の前に出られる。天皇が若宮を抱かれたとき、少々泣かれた声がとてもかわいい。弁の宰相の君が、お守り刀を持って進み出られる。母屋の襖障子の西の方、殿の北の方がいらっしゃるところに、若宮をお連れなさる。天皇が御簾の外に出られてから、宰相の君はもどってきて、「あまりにも間近で、恥ずかしかった」と言って、ほんとに赤くなっておられる顔は、上品で美しい。着物の色合いも、この人は人より一段と引き立つように着ていらっしゃる。
 
 宰相の君に式部はとりわけ心ひかれる。

[27]管弦の御遊び、人々加階―同日の夜

 (前略)
 天皇の御前で管弦の遊びがはじまって、興がのってきたときに、若宮の声がかわいらしく聞こえる。右大臣(藤原顕光65歳)が、「万歳楽が若宮の声に和して聞こえるわ」と言って、座を盛り立てる。左衛門の督(藤原公任)などは、「万歳、千秋」と声をそろえて朗詠し、ご主人の大殿(道長)は、「ああ、これまでの行幸をどうして名誉なことと思ったのか、きょうのような光栄があったのに」と、酔い泣きされる。今さら言うことでもないが、殿ご自身も、きょうの行幸をかたじけなく思っていらっしゃるのは、とてもいいことである。
 殿は、あちらの方へ出られる。天皇は御簾の中に入られて、右大臣を御前に召され、右大臣は筆をとって加階の名簿を書かれる。中宮職の役人や、この邸の家司(親王・摂関・大臣家などの家政をつかさどる者)のそれ相当の者は、みな位階があがる。頭の弁(源道方40歳)に命じて、加階の草案は、奏上されるようである。
 親王宣下という若宮の慶祝のために、道長一門の公卿たちが、お礼の拝舞をする。藤原氏であっても、家門の別れた人たちは、その列にも立たれなかった。
 (後略)

若宮誕生の余慶にあずからない人たちのことも記す作家の眼。

〔28〕御産剃り、職司定め―10月17日

 翌朝、天皇の文使いが、朝霧もまだ晴れないうちにやってこられた。私はつい寝過ごして、それを見なかった。きょうはじめて若宮の御髪を剃られる。行幸の後でということだったので、今まで剃られなかったのである。
 また、その日に、若宮付きの家司や別当や侍者などの職官が決まった。わたしはそのことを前もって聞いていなかったので、残念なことが多い。

 宮中の人事は後宮女房の推挙がかなり有効であったらしい(枕草子)。この文末の「ねたきこと多かり」もそれに関連づけて解すべきか?

 このごろの中宮様の部屋は、お産のため簡素であったが、またもとにもどって、御前のありさまは申し分ない。ここ数年来待ち遠しく思っておられた皇子誕生が思いどおりになって、夜が明けると、殿の北の方もすぐに若宮のところへやってこられて、大切にお世話なさる。その華やかで盛んな様子は、格別の趣である。

[29]中宮の大夫と中宮の権の亮

 日が暮れて、月がとても風情あるころに、中宮の亮(藤原実成)が、だれか女房にあって、特別に昇進(正四位下から従三位)したお礼を中宮様に言ってもらおうというのか、妻戸のあたりも、若宮の産湯を使っていて湯気に濡れて、人音もしなかったので、こちらの渡り廊下の東の端にある宮の内侍の部屋に立ち寄って、「ここにおいでですか」と声をかけられる。さらにこの人はわたしのいる中の間によって、まだ桟のさしていない格子を押し上げて、「いらっしゃいますか」などと言われたが、出ていかないでいると、今度は中宮の大夫(斉信)が、「ここにおいでですか」と言われる。そうまでされて聞かないふりをしていると、もったいつけているようなので、ちょっとした返事をする。お二人とも、なんのくったくもない様子である。宰相(実成)は、「わたしには返事をされないで、大夫(斉信)を特別に待遇なさるなんて、もっともですがよくないよ。こんなとこで、上官と差をつけるなんてことあっていいの?」と、とがめられる。そして、「きょうの尊さは・・・・・・」などと、催馬楽をいい声で謡われる。
 夜が更けるにつれて、月がとても明るい。「格子の下をはずしなさいよ」と、お二人は責められるけど、ひどく品格をさげてこんなところに公卿たちが座り込まれるのも、こんな場所とはいえ、やはりみっともない。若い人なら道理をわきまえないでふざけていても、大目に見てもらえるだろうが、どうしてわたしがそんなことを、不謹慎だと思うので、下格子ははずさないでいる。

 式部はいつも自分の年齢や身分をわきまえて物事を理性的・批判的に見る性質だから、上達部や殿上人とのつきあいも消極的になる。

[30]御五十日の祝い―11月1日

 誕生五十日目の祝いは、11月1日だった。例のごとく、女房たちが着飾って集まった中宮様の御前の様子は、絵に描いた物合せ(歌合・花合・絵合・具合・扇合など、左右にわかれて物を出し合って優劣を競う遊戯 )の場面によく似ていた。
 (中略)
 そのつぎの間の、東の柱下に、右大将(藤原実資、権中納言正二位52歳)が寄りかかって、女房たちの衣装の褄や袖口の色を観察していらっしゃるのは、ほかの人とはかなり違っている。わたしはみんなが酔っ払ってわからないと、まただれかと気づかれないと思って、右大将にちょっとしたことを話しかけてみたところ、当世風に気取っている人よりも、右大将は一段と立派でいらっしゃるようだ。祝杯がまわってきて賀歌を詠まされるのを気にされていたが、このような祝いの席でよく口にされる千年万代の祝い歌ですまされた。

 内省的な式部が、しかも酒の席で話しかける。藤原実資に注ぐ式部の視線は好意的である。実資は、阿諛追従のはびこる宮廷の中で、理非曲直をわきまえた人物である。

 左衛門の督(藤原公任か)が、「失礼だが、このあたりに、若紫はおいでかな」と、几帳の間からのぞかれる。源氏の君に似てそうな人もいないのに、どうして紫の上がいるのよと、聞き流していた。「三位の亮(藤原実成 )、杯を受けろ」などと殿が言われるので、侍従の宰相(藤原実成)は立って、父の内大臣(藤原公季52歳)がそこにいらっしゃるので、敬って前を通らないで、南の階下から殿の前に行ったのを見て、内大臣は(わが子が道長から杯を受ける光栄と父に対する礼儀をわきまえた行動に)感激して酔い泣きをされる。権中納言(藤原隆家)は、隅の間の柱の下に近寄って、兵部のおもと(菊の着せ綿のあの中宮女房)の袖を無理矢理引っ張っているし、殿は殿で聞きづらいふざけたことを言われている。

 
ここで注目すべきは、「源氏物語」がすでに藤原公任のような官人にも知られていたことだ。

〔31〕八千歳の君が御代

 なんだかこわいことになりそうな酔いかたなので、宴が終わるとすぐに、宰相の君と言い合わせて、隠れようとすると、東面の間に、殿のご子息たち(頼通・教通など)や、宰相の中将(道長の甥、藤原兼隆)などが入り込んで、騒がしいので、二人は御帳台のうしろに隠れていると、殿が几帳を取り払って、わたしたち二人の袖をとらえて座らせられた。「祝いの歌を一首ずつ詠め。そうしたら許してやる」と言われる。うるさいし怖いのでこう詠む。
 
 いかにいかがかぞへやるべき八千歳のあまり久しき君が御代をば
 (「いかに」に誕生50日目をかけ、幾千年にもわたる若宮の御代をどうして数えることなどできましょう)

 「ほう、うまく詠んだな」と、殿は二度ばかり声に出して詠われて、すぐにこう詠まれた。

 あしたづのよはひしあらば君が代の千歳の数もかぞへとりてむ
 (「あしたづ」は葦の生えた水辺の鶴。わたしに鶴のように千年の齢があったなら、数えることができるのに)

 あれほど酔っていらっしゃるのに、歌は心にかけている若宮のことなので、とても、その気持ちがわかる。このように殿のようなお方が若宮を大切になさるから、すべての儀式も箔がついて立派に見えるのだろう。千年でも満足できない若宮の繁栄が、わたしのような数にも入らない(取るに足らない)者にも、思いつづけられるのである。
 「宮さま、聞いてますか、上手に詠みましたよ」と、殿は自画自賛して、「まろは父として宮にふさわしいし、宮も娘としてふさわしい。母も幸福だと、笑ってるよ。きっとよい夫を持ったと思ってるだろうな」と、ふざけられるのも、深酔いのせいだろう。冗談でたいしたこともないので、心配ではあるが、目出度いことだ。これを聞いていらっしゃった北の方は、聞きづらいと思われたか、退席なさるようすなので、「見送りしないと、母が恨んではいけないな」と言って、殿は急いで中宮の御帳台の中を通り抜けられる。「(娘とはいえ中宮の御帳台の中を通り抜けるなんて)宮はさぞ無作法だと思われるだろう。だがな、この親がいたから、子も立派になったのだよ」と、独り言を言われるのを、女房たちは笑っている。
 
 女房、中宮、北の方と、無邪気に冗談をいう道長。その人間味あふれた言動に式部も好感を抱いている。

〔32〕御冊子づくり―11月中旬

 中宮様が内裏へお帰りになる日が近くなったけど、女房たちは行事が続いてゆっくりする日もないのに、中宮様は物語の冊子を作られるというので、夜が明けると、わたしはすぐに中宮様と対座して、色とりどりの紙を選んで、物語の原本をそえて、書写を依頼する手紙を書いてくばる。一方では書写したものを綴じたりして過ごす。「どこの子持ちが、こんな冷える季節にこんなことをするものか」と、殿は中宮様に言われたが、上等の薄紙や、筆、墨など、持ってきて、硯まで持ってこられたのを、中宮様がそれをわたしにくださったのを、女房たちは大げさに騒いで、「いつも奥のほうにいるくせに、こんな仕事をするとは」と咎める。でも殿は墨挟、墨、筆など、くださった。
 自分の部屋に、物語の原本を実家から取り寄せて隠しておいたのを、中宮様のところへ行っている間に、殿がこっそりやってきて、探し出されて、内侍の督の殿(道長次女妍子)に与えてしまわれた。なんとか書き直した本は、みな紛失して、(習作が出まわって)気がかりな評判がたったことだろう。

 「物語」とはまさに「源氏物語」のこと。そして「源氏物語」も①原本 ②清書本 ③自分の部屋にあった本 ④なんとか書き直した本 などがこのときに存在していたことを示している。

〔33〕若宮の成長  

 若宮は、すでに「あ」「う」など言われる。天皇が、若宮の参内を心待ちにしていらっしゃるのも、うなずける。

〔34〕里居の物憂い心  

 中宮様の前の庭の池に、水鳥が日に日に多くなっていくのを眺めながら、中宮様が宮中にお帰りになる前に雪が降ってくれれば、この庭の雪景色は、どんなに素敵だろうと思っていて、ちょっと実家に帰っていた、二日ほどして雪が降るなんて。見どころもない古里の木立を見ると、憂鬱で思いが乱れて、夫の死後数年来、ただ茫然と物思いに沈んで暮らし、花や、鳥の、色や声も、春から、秋に、移りかわる空の景色、月の影、霜や、雪を見ても、ああ、もうそんな季節になったのだなあと気づくだけで、いったいわたしはどうなるのだろうと、将来の不安は晴らしようがなかったけど、それでもなんとか取るに足りない物語をつくったり、話をして気心の合う人とは、手紙を書きあったり、ツテをたどって文通などしたものだが、ただこのような物語をいろいろいじり、とりとめない話にじぶんを慰めたりして、だからといってじぶんなど生きてゆく価値のある人間だとは思わないが、どうにか恥ずかしいとか、辛いと思うようなことはまぬがれてきたのに、宮仕えに出てからは、ほんとうにわが身の辛さを思い知らされる。

 
実家に帰った式部の索漠とした心境。式部の宮仕えの憂鬱は底知れぬほど深い。

 
そんな気持ちも晴れようかと、物語(自作の「源氏物語)を読みかえしてみても、以前のようにはおもしろくなく、あきれるほど味気なく、うちとけて親しく語り合った友も、宮仕えにでたわたしをと゜んなに軽蔑しているだろうと、思うと、そんな気をまわすことも恥ずかしくなって、手紙も出せない。奥ゆかしい人は、いいかげんな宮仕えの女では手紙も他人に見せてしまうだろうと、つい疑ってしまうだろうから、そんな人がどうしてわたしの心の中を、深く思ってくれるかと思うと、それも当たり前で、ひどくつまらなく、交際が途絶えるというわけではないが、しぜんと音沙汰がなくなる人も多い。わたしが宮仕えに出ていつも家にいないからと、訪れてくる人も、来にくくなって、すべて、ちょっとしたことにふれても、別世界にいるような気持ちが、実家ではよけいにして、悲しみに気がふさぐ。

 
式部の孤独な悲しみの述懐。彼女にとって華美な宮廷生活は、肌に合わないという程度のものではなく、生まれつきが合わないのである。

 
今のわたしは、宮仕えでなんとなく話をして、少しでも心にかけてくれる人とか、細やかに言葉をかけてくれる人とか、さしあたってしぜんと仲良く話しかけてくる人ぐらいを、ほんの少しばかり懐かしく思うのははかないことだ。
 大納言の君(源扶義の娘廉子)が、毎夜、中宮様の近くにお休みになって、お話をなさったのが恋しく思われるのも、環境になれてしまう心なのだろうか。

 浮き寝せし水の上のみ恋しくて鴨の上毛にさへぞおとらぬ
 (中宮様のとの夜が恋しくて、ひとり実家にいる寂しさは、鴨の上毛の露の冷たさに劣らない)

 返歌、

 うちはらふ友なきころのねざめにはつがひし鴛鴦ぞ夜半に恋しき
 (おしどりが互いに露をはらうような友のいないこのごろのねざめには、いつも一緒にいたあなたのことが恋しくてならない)

 歌の書き方までがとても素敵なのを、すべてによくできた方だと思って見る。
 「中宮様が雪をご覧になって、よりによってあなたが実家に帰ったのを、ひどく残念がっていらっしゃるわよ」と、女房たちも手紙で言ってくる。殿の北の方からの手紙には、「わたしが引きとめた里帰りだから、特に急いで帰り、すぐに帰ってくると言ったのもうそで、いつまでもいるみたいね」と言われてきたので、たとえそれが冗談でおっしゃったにしても、わたしもすぐと言ったことだし、手紙もわざわざくださったのだから、悪いと思って(宮廷に)もどった。

 宮廷生活を嫌だと思いながらも同僚を慕い、宮仕えという境遇に流されてゆく式部。

[35]中宮内裏還啓―11月17日

 中宮様が宮中に入られるのは17日である。午後8時ごろと聞いていたけど、延びて夜も更けてしまった。みんな髪上げして控えている女房は、30人あまり、その顔など、見分けられない。母屋の東の間、東の廂に、内裏の女房も10人あまり、わたしたちとは南の廂の妻戸をへだてて座っていた。
 中宮様の御輿には、宮の宣旨女房がいっしょに乗る。糸毛の車に殿の北の方、それに少輔の乳母が若宮を抱いて乗る。大納言の君、宰相の君は黄金づくりの車に、つぎの車には小少将の君と宮の内侍、そのつぎの車にわたしが馬の中将(中宮女房・左馬頭藤原相尹の娘)と乗ったのを、中将が嫌な人と同乗したと思っているのを見ると、なおさら宮仕えの煩わしさを感じる。殿守の侍従の君、弁の内侍、そのつぎに左衛門の内侍と殿の宣旨の式部までは順序が決まっていて、そのほかは、例によって思い思いに乗り込んだ。車からおりると月がくまなく照らしているので、なんと恥ずかしいことかと、足も地につかなかった。馬の中将が(先輩だから)先に行くので、どこへ行くかもわからずたどたどしくついてゆく格好を、わたしの後姿をどう見たのだろうと思うと、ほんとうに恥ずかしかった。

 式部は内気だが、いつも穴のあくほど人間を観察する。これが人によっては<知的な冷たさ>として嫌われるのである。

 一条院の東の対の部屋に入って横になっていると、小少将の君(源時通の娘)もいらっしゃって、やはり、こういう宮仕えの辛さなどを語り合って、寒さで縮んだ衣裳を隅にやり、厚ぼったい綿入れを重ねてきて、香炉に火を入れて、体が冷えきった同士が、お互いの不恰好を言い合っていると、侍従の宰相(藤原実成)、左の宰相の中将(藤原公信32歳、為光の子)、公信(きんのぶ)の中将など、つぎつぎに寄って来ては声をかけるのも、かえって煩わしい。今夜はいないものと思われて過ごしたいのに、ここにいることをだれかに聞かれたのだろう。「明日の朝早く来ましょう。今夜はがまんできないほど寒くて、体もすくんでるから」などと、(こちらの迷惑がっているのに気づいて)それとなく言われて、こちらの詰所より出てゆかれる。それぞれ家路を急がれるけど、どれほどの女性が待っているのだろう?、と見送る。こんなことを思うのは、じぶんの身の上から言うのではなく、世間一般の男女関係、小少将の君が、とても上品で美しいのに、世の中を辛いと思っていらっしゃるのを見るからです。この方は父(右少弁源時通)が出家(永延元年987年)なさったときから不幸が始まって、その人柄にくらべて運がとても悪いようです。

 還啓の乗車は身分の順で、式部は中位より上だが、儀式で役目があるわけではなく、冊子作りなどで主任格といえる彼女の身分はやや別格である。

〔36〕殿から宮への贈物

 昨夜の殿からの贈物を、中宮様は今朝になってていねいにご覧になる。御櫛箱(髪の道具一式をいれる二段重ねの箱)の道具類は、言葉ではいえないほど立派である。手箱が一対、その一方には白い色紙を綴じた本類、『古今集』『後撰集』『拾遺集』
などで、その歌集一部はそれぞれ5帖に作って、侍従の中納言(藤原行成・三蹟の一人)と延幹(能書の僧)とに、それぞれ冊子1帖に4巻をあてて書かせていらっしゃる。表紙は薄絹、紐も同じ薄絹の唐様の組紐で、箱(懸子かけご)の上段に入れてある。下段には大中臣能宣や清原元輔のような、昔や今の歌人たちの家集を書き写して入れてある。延幹と近澄の君が書かれたものは、立派なもので、これらはもっぱら、身近において使われるものとして、見たこともない見事な装丁になっているのは、現代風で変わっている。

 
底本は上下2冊本。ここで上巻が終わる。

下巻

〔37〕五節の舞姫―11月20日

 五節の舞姫は20日に内裏に入る。中宮様は侍従の宰相に、舞姫の装束などをつかわされる。右の宰相の中将が、舞姫に飾りの組紐を願われたのをつかわされ、そのついでに、箱一対にお香を入れ、飾りの造花に梅の枝をつけて、美しさを競うように贈られる。
 さしせまってから用意される例年よりも、今年はいっそう立派だと評判だったが、当日は東の、御前の向かいにある立蔀に、隙間もなくともした灯の光が、昼間より妙に明るいのに、舞姫たちが静かに入場してくる様子は、よく平気でいられるものと思うけど、他人事とは思えない。ただこのように、殿上人が顔をつき合わせ、脂燭を照らしていないというだけだ。幔幕でさえぎってあるとしても、あらわな様子は、同じように見えるだろうと、じぶんのことのように、胸がつまってしまう。
 
 ※この年の舞姫は4人(侍従宰相藤原実成の娘、右宰相中将藤原兼隆の娘、丹波守高階業遠の娘、尾張守藤原中清の娘)

 業遠の朝臣の舞姫の介添役は、錦の唐衣を着て、闇の夜にも、他人よりも、珍しく見える。衣装をたくさん重ね着して、身動きもしなやかでないように見える。それを殿上人が、心をこめて世話している。こちらの中宮様のところに天皇もいらっしゃって舞姫をご覧になる。殿もそっと、引戸の北側にいらっしゃっているので、気ままにできないので煩わしい。
 藤原中清の舞姫の介添役は、背も同じくらいそろっていて、とても優雅で奥ゆかしい様子は、他の人にも劣らないと評定される。右の宰相の中将(藤原兼隆)の介添役は、やるべきことはされていた。その中の下役の女二人のきちんとした身だしなみが、どこか田舎じみていると、人々は笑っている。最後に、藤宰相(藤原実成)のは、そう思って見るせいか現代的でとてもお洒落である。介添の女房は10人いる。孫廂の御簾をおろして、その下からこぼれ出てる衣装の褄なども、得意げに見せているよりは、いっそう見栄えがして、灯火の光の中で美しく見える。

 五節の舞姫が注目されて、平静を装っている辛い心を思いやり、それが他人事でなく、じぶんも同じ境遇であると胸をつまらせる。
 このように、他人事をじぶんに引きつけ、内省して沈んでゆくのは、式部特有の精神構造である。

〔38〕殿上の淵酔・御前の試み―21日

 寅の日の朝、殿上人が中宮様の前にまいる。例年のことだけど、ここ数ヶ月の里帰りになれたのか、若い女房たちはそれを珍しいと思っている。きょうはまだ青摺り衣(神事の祭服)も見えない。
 その宵、中宮様は東宮の亮(高階業遠)を召されて薫物を賜る。大きめの箱ひとつに、うずたかく入れられた。尾張の守には、殿の北の方がつかわされた。その夜は御前の試みとかで、中宮様も清涼殿へ行かれてご覧になる。若宮も一緒なので、魔除けの米をまき散らし、高らかな声をあげるが、例年とはちがう気がする。
 わたしは気が進まないので、しばらく局で休んで、そのときの様子をみてうかがおうと思っていたところ、小兵衛や小兵部なども囲炉裏のそばにいて、「とても狭いので、よく見えない」などと言ってるときに、殿がいらっしゃって、「どうしてこんなことをしてる、さあ、一緒に行こう」と、急きたてられるので、その気はなかったが御前にまいった。舞姫たちが、どんなに苦しいだろうと見ていると、尾張の守の舞姫が、(緊張のあまり)気分が悪くなって出てゆくのが、まるで夢のように見える。御前の試みが終わって中宮様は退出された。
 この頃の若い人たちは、もっぱら五節所(舞姫の控室)の趣あることを話している。「簾のはしや帽額(一幅の布)さえも、それぞれの部屋ごとに趣がちがっていて、そこに出仕している介添の女たちの髪格好や、立ち居振る舞いさえ、さまざまに趣がある」などと、聞きづらいことを話している。

 華麗な舞姫の内心の苦しさを思わずにいられない式部。

〔39〕童女御覧の儀―22日  

 今年のように舞姫の美しさを競うわけではないふつうの年でも、舞姫に付き添っている童女御覧の日の童女たちの気持ちは、並大抵の緊張ではないのに、今年はどうであろうと、気にかかって早く見たいと思っていると、舞姫たちが付添の女房と並んで出てきたのには、わけもなく胸がつまって、ほんとうに気の毒な気がする。だからといって、特別に好意を寄せる人もいないのだが。われもわれもと、あれほどの人々が自信たっぷりにさしだしたからであろうか、目移りしてしまって、その優劣も、はっきりと見わけられない。現代的な人には、きっと見分けがつくだろう。ただこのような曇りのない日中に、扇も満足に持たせず、大勢の男たちがいる所で、相当な身分才覚のある人とはいえ、人に負けないよう競い合う気持ちも、どんなに気後れがするだろうと、無性に気の毒に思われるのは、まったく時代遅れの融通のきかにいこと。
 丹波の守の童女の、青みがかった緑色の正装が、素敵だと思っていたところ、藤宰相の童女は、赤みがかった黄色を着せて、その下仕えの童女に唐衣に青みがかった緑色を対照させて着せているのは、嫉妬したくなるほど気がきいている。童女の容貌も、丹波の守の一人はそれほど整っているとは見えない。宰相の中将のほうは、童女がみな背丈がすらりとして、髪も素敵だ。その中の馴れすぎた童女の一人を、どうだろう(あまりよくない)と、人々は言っている。みんな濃い紅の衵(あこめ)を着て、表着はさまざまである。正装の上衣は、みな五重がさねを着ているのに、尾張の守は童女に葡萄染めを着せている。それがかえって由緒ありげで、衣装の色合いや、光沢など、とても優れている。下仕えの童女の中にとても顔のいいのが、その扇をとらせようと六位の蔵人が近寄ると、じぶんから扇を投げたのは、しっかりしてるけど、女らしくもないと感じた、もし私たちが、あの人たちのように人前に出ろということだったら、こんな批評めいたことを言っていてもあがってしまってうろうろしてるだけかも。わたしだって以前にはこんなに人前に出るとは思わなかった。けれど、目の前に見ながら浅はかなことは、人の心の常だから、わたしもこれからあつかましくなって、宮仕えに慣れすぎて、男とじかに顔を合わせても平気になるだろうと、じぶんのことが夢のように思われて、あってはならないこと(乱れた異性関係か?)まで想像して、怖くなるので、目の前の盛儀も、例のごとく目に入らなくなってしまう。

 
童女への同情は自己への反省となる。つまり、他人への同情、批評は必ず内省に進み、自己批判をしてしまう。これが式部の精神の特徴である。

〔40〕左京の君

 侍従の宰相の舞姫の控所は、中宮様の御座所から見渡せる近くにある。立蔀の上から、あの評判の簾のはしも見える。人々の声もほのかに聞こえる。「あの弘徽殿の女御(実成の姉、藤原義子)のところに、左京の馬という人が、慣れた様子でまじっていたね」と、宰相の中将(源経房)が、昔の左京を知っていて言われるのを聞いて、「あの夜、侍従の宰相の舞姫の介添役で、東側にいたのが左京ですよ」と、源少将(源済政)も見ていたのを、なんかの縁があって左京のことを聞きたい女房たちが、「おかしなこともあるものだ」と言って、さあ、知らぬふりはしておられない。以前上品ぶっていた宮中に、こんな介添役なんかで出てくるなんて。本人はわからないと思ってやってるつもりだろうけど、暴露してやろうと、中宮様の前にたくさんある扇の中で、蓬莱山が描いてあるのを特別に選んだのは、なにか趣向があるにちがいないが、左京はそれを理解しただろうか。箱のふたに扇をひろげて、日陰の鬘をまるめてのせ、それに反らした櫛や、白粉など、念入りに端々を結いつけた。「少し盛りを過ぎた人だから、これでは櫛の反りようがたりないな」と、男の方が言われるので、現代風のみっともないほど反らして、薫香も丸めて、不恰好にあとさきを切り、白い紙二枚を重ねて立文(正式の書状)にした。手紙は大輔(たいふ)のおもとにつぎのように書かせた。

 おほかりし豊の宮人さしわきてしるき日かげをあはれとぞ見し
 (大勢いた宮廷人の中で、とりわけ目立った日陰の鬘のあなたを、とても感慨深く見受けた)

 中宮様は、「同じことならもっと趣向を凝らして、扇ももっとたくさんあげたら」と言われるけど、「あまり大げさなのも、趣旨にあわないでしょう。特別に賜れるなら、このように内々にして意味ありげになさるものではありません。これはほんの私事なのですから」と言われて、顔の知られていない者を使いにやって、「これは中納言の君(弘徽殿の女御付の女房)からあずかった女御(義子)様からの手紙です。左京の君に」と声高に言って置いてきた。使いの者が引きとめられたらいけないなと思っていると、使いは走って帰ってきた。先方では女の声で、「(付添で来てるなんてだれも知らないはずなのに)どこから入ってきたの」と下仕えにたずねているようだったが、女御様の手紙と、疑いなく信じてることだろう。

 もと内裏の女房が舞姫の付添でやっきているのを見ていたずらをする。虚栄や嫉妬や競争に明け暮れる宮廷女房社会の一端。

[41]五節も過ぎて

 なにも耳をとどめることもなかったこの数日間だが、五節も終わってしまったという宮中の様子は、急に寂しい気がするけど、26日の夜にあった臨時祭の雅楽の練習は、ほんとうにおもしろかった。若々しい殿上人などは、どんなに名残惜しい気持ちだろう。
 高松の上(道長の第二夫人、源高明の娘明子)の若い子息たち(頼宗16歳、頼信15歳、能信)さえ、中宮様が宮中に入られた夜からは、女房の部屋に入ることを許されて、すぐ近くを通って歩かれるので、ひどくきまりが悪い思いをする。わたしは盛りが過ぎたのを口実にして隠れている。若い子息たちは五節が恋しいなどとは思っておられず、やすらい(中宮付の童女の名)や、小兵衛(中宮の若女房)などの、裳の裾や、汗衫(かざみ)にまつわりつかれて、まるで小鳥のようにきゃあきゃあとふざけていらっしゃる。

 五節が過ぎ去った空虚感と高松の子息たちのはしゃぎの対比。

[42]臨時祭―11月28日

 賀茂神社の臨時祭りの神に奉献する使者は、殿のご子息の権の中将(道長の五男教通)である。当日は宮中の物忌なので、殿は、宿直(とのい)なさった。公卿たちも舞人をつとめる人たちも、宮中にこもって、そのため一晩中、女房の部屋があるこの細殿のあたりは、ひどくざわついたけはいだった。
 祭りの日の早朝、内大臣(公季)の随身が、こちらの殿の随身に贈り物を渡して帰っていったが、それは先日の左京に扇を贈ったときの箱のふたで、それに白銀の冊子箱が置いてある。その箱の中に鏡を入れて、沈香木製の櫛、白銀製の笄など、使いの権の中将が髪を整えるようにしてある。箱のふたに葦手書き(仮名を図案化した書風)で浮き出ているのは、あの「日陰」の歌の返事らしい。文字がふたつ抜けていて、なんだか変だなと思えたのは、内大臣(公季)がてっきり中宮様からの贈物だと思われて、このようにおおげさにされたのだと聞いた。ちょっとしたいたずらが、気の毒なことに、こんなにおおげさになって。
 殿の北の方も、参内されて使者の儀式(晴れ姿)をご覧になる。教通様が藤の造花※を冠に挿し、とても立派で大人びていらっしゃるのを、内蔵の命婦(教通の乳母)は、舞人たちには目もやらないで、成人した教通様をつくづくと見ては感涙にむせんでいた。
 宮中の物忌なので、賀茂の社から、使いの一行が内裏に午前2時ごろに帰られると、還立の神楽などもほんの形ばかり行われた。舞の名手の兼時が、去年までは舞人として素晴らしかったが、今年は老けて衰えた動作は、わたしには関係のない人だけど、あわれで、じぶんの身になぞらえることが多かった。

 ※舞人は桜の造花を挿す。

 この文章も二項対立(教通の晴れ姿と舞の名手の老残)による内省の念。

[43]年末独詠―12月29日の夜

 師走の29日に実家から宮中に参上する。はじめてわたしが宮中へ参上したのも12月29日の夜だった。あの時はまるで夢の中を歩いているようだったなあと思いだしてみると、今ではすっかり慣れてしまっているのも、いやな身の上だと思われる。
 夜はたいそう更けた。中宮様は物忌にこもっていらっしゃるので、御前にも行かず、心細い気持ちで横になっていると、一緒にいる若い女房たちが、「宮中はやっぱり違うわね。実家にいたら、もう寝ているはずなのに、寝つかれないほど(女房の局をたずねる男たちの)沓音のしょっちょうすること」と、ドキドキして言っているのを聞いて、

 年くれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな
 (今年も暮れて、わたしも老いてゆく。風の音に心が荒れて寂しい)

 とひとり言をいう。

 老いゆく身の荒涼たる絶望。

[44]晦日の夜の引きはぎ

 大晦日の夜、鬼やらい(悪鬼払い)の行事は早くすんでしまったので、お歯黒をつけたりなど、ちょっとしたお化粧などしようとして、くつろいでいると、弁内侍(藤原義子)がやってきて、話をして、休まれた。内匠の蔵人(中宮女房、女蔵人)は長押の下座に座って、あてき(童女の名)が縫う仕立物の、折り込み方を教えたりなど、せっせとしていたときに、中宮様のところではげしい悲鳴がする。内侍を起こしたが、すぐには起きない。だれかが泣き騒いでいるのが聞こえるので、とても恐く、どうすることもできない。火事かと思ったが、そうではない。
内匠の君、さあさあ」と、先に押しやり、「ともかく、中宮様は下の部屋にいらっしゃいます。まずそこへ行ってみましょう」と、弁の内侍を荒々しくつついて起こして、三人がふるえながら、足も地につかないほどうろたえて行ってみると、裸の人が二人いる。靱負(ゆげい)と小兵部だった。引きはぎに着物を奪われたのだとわかると、ますます気味が悪い。御厨子所(みずしどころ食膳を調達する所)の人たちもみないなく、中宮付の侍も、滝口の侍(警護の武士)も、鬼やらいがすむとすぐに、みんな退出していた。手をたたいて叫んでも、返事をする人もいない。おものやどり(御膳を納めておく所)の老女を呼んで、「殿上人の詰所に、兵部の丞(式部の弟、藤原惟規のぶのり)という蔵人がいる、呼んできて、呼んできて」と恥も忘れてじかに言ったので、老女はすぐに行ったが、やはり退出していた。こんな情けないことがあるものか。
 式部の丞資業(すけなり)がやって来て、あちらこちらの灯台の油を、ただ一人で注いでまわる。女房たち、ただ呆然として、顔を見合わせて座り込んでいる。天皇から中宮様にお見舞いの使いがあった。ほんとうに恐ろしいことだった。中宮様は納殿(財宝・衣服・調度を納めた蔵)にある衣裳を出させて、この二人に賜った。元日用の晴着は盗っていかなかったので、二人ともなにもなかったようにしているけれど、あの裸姿は忘れられず、恐ろしいけど、今になってみればおかしくもあるが口に出してはいえない。

 この引きはぎは、盗賊ではなく、年を越す下人の物ほしさだろう。

[45]新年御戴餅の儀-寛弘6年正月

 正月1日、元旦なので不吉な言葉は避けるべきだが昨夜のことをつい口にしてしまう。元旦は凶の忌日にあたっていたので、若宮の御戴餅(小児の頭上に餅をあてる)の儀式はとりやめになった。それで三日の日に若宮は清涼殿にのぼられる。今年の若宮の陪膳役は大納言の君(廉子)。装束は、元日は紅の袿、葡萄染めの表着、唐衣は赤色で地摺りの裳。二日は、紅梅の織物の表着、打衣の掻練は濃い紅、青色の唐衣、色摺りの裳。三日は、綸子(りんず、滑らかで光沢がある絹織物)の桜がさねの表着、唐衣は蘇芳の織物。掻練は濃い紅を着る日は紅の袿は中に、紅の掻練を着る日は濃い紅の袿を中に着るなど、いつもの決まりどおりである。女房たちは萌黄がさね、蘇芳がさね、山吹がさねの濃いのや薄いの、紅梅がさね、薄色がさねなど、ふだんの色目を一度に六つほど、これに表着を重ね合わせて、とても体裁よく着こなして控えている。  
 宰相の君(豊子)が、若宮のお守刀を持って、殿が若宮を抱いておられるのに続いて、清涼殿に行かれる。紅の袿の三重縫い五重縫い、三重縫い五重縫いと交互にまぜて、同じ紅色のつやを出した七重がさねの打衣に、さらに一重を縫い重ね、重ねまぜて八重にして、その上に同じ紅色の固紋の五重の表着をつけ、袿には葡萄染めの浮紋で堅木の葉の紋様を織ってあるが、縫い方まで気がきいている。それに緑を三重に重ねた裳をつけ、赤色の唐衣は菱の紋様を織って、意匠も唐風にしゃれてる。とても美しく髪などもいつもより念入りにつくろってあって、容姿、態度も、上品で美しい。背丈もちょうどよく、ふっくらとした人で、顔はとても可愛く、色艶も美しい。  
 大納言の君(廉子)は、とても小柄で、小さい部類にはいる人で、色白で美しく、まあるく太っているが、見た目にはすらっとして、髪は、背丈に三寸ほどあまっている裾の様子、髪の生えぐあいなど、すべて個性的で、神経のゆきとどいた美しさだ。顔もとても可愛らしく、身ぶりなども、可憐でやさしい。  
 宣旨の君(中納言源伊陟これちかの娘)は、小柄な人で、とてもほっそりしていて、髪の毛筋は細かいところまできれいで、垂れ下がっている髪の末が袿の裾から一尺ほど余っている。こちらが恥ずかしくなるほど、際限なく気品がある。物陰から歩いてこられた姿も気品に満ちていて、自然と気にかけてしまう。上品な人はこのような人だろうと、気立てのよさが、ちょっとしたことを言われても、わかる。

 宰相の君、大納言の君、宣旨の君の容姿や人柄への賞賛は、続いて他の女房たちの人物批評に移ってゆく。

[46]人々の容姿と性格

 このついでに、人々の容姿のことを話したら、遠慮がないということになるだろうか。それも現在の人のことを。顔をあわせる人のことは、差し障りがあるし、どうかと思われるような、少しでも欠点のある人のことは、言わないことに。
 宰相の君は、(豊子様でなく)北野の三位(藤原遠度)の娘のほう、彼女はふっくらして、とても容姿が整っていて、才気ある理知的な容貌で、ちょっと見たより、見れば見るほど、格段によくて、かわいらしくて、口元に、気品がただよい、こぼれるような愛嬌もそなわってる。立居振舞いもとても美しく、華やかにみえる。気立てもとてもおだやかで、可愛らしく素直で、こっちが気おくれしてしまうような気品もそなわっている。
 小少将の君(源時通の娘)は、なんとなく上品に優雅で、二月ごろの初々しいしだれ柳のよう。容姿はとても美しく、物腰は奥ゆかしく、性質なども、じぶんでは判断できないように内気で、ひどく世間を恥ずかしがり、見てはいられないほど子どもっぽい。意地の悪い人で、悪しざまにあつかったり事実とはちがうことを言う人があれば、それを気に病んで、死んでしまいそうなほど、弱々しくどうしようもないところが、頼りなくて気がかりです。
 宮の内侍(橘良芸子)は、とても清楚な人です。背丈もちょうどよいほどで、座っているとき、姿格好、とても堂々としていて、現代的な容姿で、細かに、とりたてて素敵だとは見えないが、とても清楚で、すらりとしていて、中高な顔立ちで、黒髪に映えた顔の色合いなど、ほかの人より優れている。頭髪の格好、髪の生えぐあい、額のあたりなど、まあなんときれいなと思えて、華やかで愛嬌がある。ごく自然にありのままにふるまって、気立てなどおだやかで、つゆほどもやましいところがなく、すべてあんなふうでありたいと、人の手本にしてもいい人です。風流がったり気取ったりはなさらない。

 宮の弁侍までは式部より上位の女房。人物批評にも敬意と憧憬の念がうかがわれる。

 式部のおもと(橘忠範の妻)は、宮の内侍の妹です。ふっくらしすぎるほど太っている人で、色はとても白く艶やかで、顔は整っていて趣がある。髪も非常に美しく、長くはないので、付け髪などして、宮仕えしている。出仕の当時はその太った容姿が、とても美しかった。目もと、額のあたりなど、ほんとうにきれいで、微笑んだところなど、愛嬌もいっぱい。  

 当時、肥満はかならずしも美人のマイナス条件ではなかったらしい。適度のふっくらとした愛らしさはむしろ好まれた。

 若い人たちの中でも容貌が美しいのは、小大輔(こだいふ)、源式部(げんしきぶ)など。大輔は小柄な人で、容姿はとても現代的、髪は美しく、とても豊かで、丈に一尺以上も余っていたのに、今では抜け落ちて細くなっている。顔もひきしまって、なんて素敵な人と思われる。容貌はなおすところなし。源式部は、背丈もちょうどよく、すらりとしていて、顔も整っていて、見れば見るほど素敵で、可愛らしい風情、清々しくさっぱりしていて、 宮仕えの女房というよりどこかの娘のよう。  
 小兵衛、少弐なども、とてもきれい。それらの美しい女房たちは、殿上人が見すごすなんて、少ない。だれも、まかりまちがうと知れわたってしまうが、見られないところでも用心してるので、知られずにすんでいる。  宮本の侍従はすみずみまで整った美しい人。とても小さくてほっそりしていて、まだ童女のままにしておきたいようだったが、じぶんから老け込んで、尼になって宮仕えをやめてしまった。髪が、袿の丈に少し余って、その末をとても華やかに切りそろえて参上したのが、宮仕えの最後のとき。顔もとても美しかった。  
 五節の弁という人がいる。平中納言(平惟仲)が、養女にして大事にしていたと聞いている人です。絵に描いたような顔して、額が広い人で、目じりがとても長く、顔もとくに個性があるわけでなく、色白で、手つきや腕の様子はとても風情があって、髪は、わたしが見た春は、背丈に一尺ばかり余って、豊かにたくさんあったが、(父惟仲の横死が原因で)あきれるほど抜け落ちてしまって、裾のほうもさすがに誉められたものではなく、長さは丈に少し余っているよう。  
 小馬という人、髪がとても長かった。昔は美しい若女房だったが、今は琴柱に膠でつけたように実家に引っ込んでいるよう。  
 このように言ってきたけど、さて気立てはとなるとこれはと思う人はいない。それも、それぞれに個性があって、ものすごく悪いのもいない。また、優れて気品があって、思慮ぶかく、才覚や風情も、信頼も、将来性も、すべて持っているような人もいない。みなそれぞれで、どの人をとるべきかと迷う人ばかり多い。こんなこと言ってほんとうにごめんなさい。

 五節の弁の宮仕えは式部よりも後。五節の弁の髪が抜け落ちたのは、父平惟仲の大宰府での横死による悲嘆と傷心が原因。とすると彼女が出仕したのは父が死んだ寛弘2年3月以前であり、式部との出会いもこの春と推定される。

〔47〕斎院と中宮御所  

 賀茂の斎院に、中将の君(斎院女房、斎院長官源為理の娘。歌人で式部の弟惟規の愛人)という人が仕えていると聞いている。つてがあって、この人が他人に書いた手紙を、こっそりと人が見せてくれた。それは華やかで、じぶんだけが世の中でものの情趣を知っていて、心が深く、比類なく、すべて世間の人は、深い心も分別もないと思っているらしく、手紙を見たら、無性にむしゃくしゃして、憤りをおぼえ、下賎な人がいうように、ほんとうに憎らしく思えた。たとえ手紙の文面であっても、「和歌などの趣のあるものは、わが斎院様(村上天皇の第十皇女選子内親王46歳)よりほかに、だれが見わける人がいるだろうか。世の中に情趣豊かな人が出現するとすれば、わが斎院様しか見わけることができないでしょう」などと書いてある。
 なるほどそれももっともだけど、じぶんの方のことをそれほど誇って言うなら、斎院方から作られた歌の、すぐれてよいと思えるものはない。ただ趣のある、風情がある生活をされている所のようだ。仕えている女房を比べて競争したなら、中宮様のまわりの人たちに、必ずしも斎院方の女房のほうが勝ってはいなく、斎院方をいつも内部まで見ている人はいないし、美しい夕月夜・風情ある有明・花見・ほととぎすの名所として行ってみると、斎院様はとても趣味豊かな心があって、御所は浮世離れがして、神々しい。また世俗の雑事にとらわれることもない。こちらのように中宮様が清涼殿にあがられるとか、あるいは、殿がいらっしゃるとか、宿直なさるとか、騒々しい事もないし、ふるまいが、しぜんと風雅を好むようになっているので、優雅のかぎりをつくしたとしても、軽口をたたくことなどできようか。わたしのような埋もれ木をさらに埋めたような引っ込み思案な性格でも、あの斎院方に仕えたら、そこで知らない男に出会って、ものを言っても、軽薄な女だという評判を隠しきれないと、心をゆったりとさせてしぜんと優雅なふるまいをするだろう。まして若い女房で、容貌も、年齢も、引け目を感じることのない人が、それぞれ思う存分色っぽくして、歌を詠むのもじぶんの趣向のままにしたら、斎院方の人たちに劣るものでもない。
 けれど、こちら中宮方では宮中で明け暮れ顔をあわせて、競い争う女御、后もいなく、そちらのお方、あちらの細殿のお方というように、並べて言う相手もなく、男も女も、争うこともなくのんびりしていて、中宮様の気風として色っぽいことを、ひどく軽薄なことだと思っていらっしゃるので、少しは人並みでありたい女房は、並大抵のことでは男との応対には出ない。気やすく、恥ずかしがらないで、ああだこうだという人の評判を気にしない女房は、中宮様の意向とはちがって色っぽいことを言わないわけでもない。ただそんな女房は気がおけないからと、男たちが立ち寄って話をするので、「中宮方の女房たちは引っ込み思案だ」、あるいは「奥ゆかしさがない」などと批評するだろう。上級・中級の女房は、あまりに引っ込みすぎてお高くとまってばかりいる。それでは、中宮様のために、なんの引き立て役にもならず、かえって見苦しい。

 ※中宮彰子の唯一の競争相手は皇后定子だったが、定子は彰子が中宮になった長保2年(1000)の12月に崩じている。  

 こういうと上臈・中臈(上級・中級)の女房の欠点を、わたしがよく知っているようだが、人はみな人それぞれで、ひどく劣ったり勝ったりするものでもない。そのことが優れていれば、あのことが劣る、といったようなものだ。けれど、若い人たちでさえなるべく重々しくふるまおうと真面目にしているのに、上級・中級の人たちが見苦しくふざけたりするのも、ひどくみっともない。とにかく中宮方の雰囲気を、このような無風流ではなくしたいと思う。

 「人はみなとりどりにて、こよなう劣りまさることもはべらず」式部の確かな人間観察。  

 とはいっても、中宮様のお心はなにひとつ不足なところがなく、聡明で奥ゆかしくいらっしゃるのに、あまりにも内気な性格だから、(女房たちに)じぶんからは言いださないでおこう、言いだしても、気づかいなく後悔しないですむ人は、めったにいないと思っていらっしゃる。たしかに、何かのときに、中途半端なことをしては、できの悪いより劣るというもの。とりわけ思慮深くない人で、中宮御所で得意顔をしてる者が、なまじっか筋の通らないことを、なにかの時に言ったのを、中宮様がまだとても若い時のことで、ひどく聞き苦しいと心から思われたので、ただ目立った欠点がなくて過ごすのを、無難なことだと思っておられる考えに、子どもっぽい良家の子女たちが、みなとてもよく中宮様の考えにあわせようと仕えているうちに、こんな(中宮方の)気風(地味で控え目)になれてしまったのだとわたしは思っている。  
 今では、(中宮様は)だんだん大人らしくなるにつれて、世の中のほんとうの姿や、人の心の良し悪しも、出すぎたのも控えめなのも、すべてわかって、この中宮御所のことを、殿上人もだれもが見なれて、特におもしろいこともないと思ったり言ったりしているらしいと、すべて承知していらっしゃる。といっても、奥ゆかしさばかりでは押し通すことができず、 一歩踏みはずすと、ひどく軽薄なことも出てくるものの、無風流で引っ込みがちなのは、(中宮様も)もっと積極的になってほしいと思ったり言われたりするが、(中宮方の)その控えめな習慣はなおりにくく、また、現代風の若い貴公子たちときたら、この気風に順応して、中宮御所にいる間は実直にふるまう人ばかり。斎院などのような所で、月を見、花を愛でたりする、一途な風流なことは、じぶんから求め、想像もするだろう。(a(中宮方は)朝夕出入りして、奥ゆかしくないところで、日常の言葉もなにかに関係づけて聞いたり、言ったり、あるいは、(男たちから)興味あることを話しかけられて、返事を恥ずかしくなくできる女房は、ほんとうに少なくなったと、殿上人たちは批評しているようだ。でもこれはわたしが直接見たわけではないから、よくわからない。  

 斎院方は風流で奥ゆかしく、中宮方は地味で趣がないという殿上人たちの世評。「みづからえ見はべらぬことなれば、え知らずかし」の「え知らずかし」は、中宮方への悪評に対する強い反発がある。

 人が立ち寄って(話しかけてきたとき)、ちょっとした返事をしようとして、人の感情を害するようなことをしでかすのは困りもの。上手に応対して当然である。ところがこの当然のことができない、それだけ気立てのいい人はめったにいないものだ。どうして、とりすまして引っ込んでいるのが賢いといえるのか。また、だらしなく出しゃばるのがよいことだろうか。適当に、そのときどきの状態で、配慮することがとても難しいのだろう。  まず第一に、中宮の大夫がこられて、中宮様に啓上なさるような時に、ひどく弱々しく子どもっぽい上臈たちは、応対に出るようなことはめったにない。また、応対に出たとしてもなにも、はきはき言えそうもない。言葉が足らないわけでもなく、理解力がないからでもなく、気がひけて、恥ずかしいと思って、間違ったことを言おうものなら、いやなことだ、一切応対に出ないようにしようと、ちょっとした姿も見られないようにする。上臈以外の女房たちは、それほどでもない。こういう男たちと対面しなければならない宮仕えに入ってしまうと、とても高貴な方でも、世間のしきたりに従うものだが、中宮付の女房たちは(宮仕え以前の)姫君の時のままの振舞いで、みないらっしゃる。下級の女房が応対に出るのを、大納言(藤原斉信)は快く思っていらっしゃらないので、しかるべき上臈の人たち、実家に帰ったり、局にいても、やむをえず暇がない時には、応対にでる者がいなくて、大納言がそのまま帰られるときもあるようだ。そのほかの公卿たちは、中宮様の御所に来られて、なにか啓上なさるときは、それぞれ、贔屓の女房と、いつのまにかそれぞれ昵懇にしていて、その女房がいないときは、つまらなそうに、帰ってゆくが、そんな人たちがなにか機会があると、この中宮方のことを、「引っ込み思案だ」などと言うのも、無理もないこと。
 斉院あたりの人も、こんなとこを軽蔑するのだろう。だからといって、じぶんの方が、優れていて、他の人はものを見る目がない、風雅もわからないだろうと、侮るのも、筋が通らない。すべて非難するのはたやかく、じぶんに気を配るのは難しいはずのに、そう思わないで、じぶんは賢いと、他人を無視したり、世間を非難しているところに、浅はかな心がはっきりと見える。  まったく見せてあげたいような斎院の中将の手紙の書きぶりだった。ある人が隠しておいたのをそっと取り出し、こっそり見せてくれて、すぐに返してしまったので、(手紙を見せられないのが)残念なこと。

 ※式部は藤原実資に信用され、しばしば取次を頼まれている。

 斎院の中将の手紙に対する批評には、激しい憤りがあるが、斎院と中宮のそれぞれの環境と特質を分析した上で反論を進めているので説得力がある。相手の非だけを責めるのではなく、中宮方の短所も素直に自己批判しているところに、つねに自己凝視をする式部の特性がある。

〔48〕和泉式部・赤染衛門・清少納言批評  

 和泉式部という人は、興味がわく手紙をやりとりした。だけど、和泉は倫理的に感心しないところがある。気軽に手紙を走り書きしたときに、そのほうの文章の才能のある人で、ちょっとした言葉にも、色艶が見えるようだ。和歌は、とても上手い。でも古歌の知識、歌の理論などは、ほんとうの歌人というわけではなく、口からでるにまかせて詠んだ歌などに、かならず面白い一点の、目にとまるものが詠んである。それほどの歌人であっても、他人が詠んだ歌を、非難したり批評したりする場合、歌というものをよくわかっていないようだ。口からしぜんと歌が出てくるような、そんな感じの歌人。こっちが恥ずかしくなるような素晴らしい歌人とは思えない。

 ※和泉式部 越前守大江政致(まさむね)の娘。情熱的な歌人で三十六歌仙の一人。中宮彰子への出仕は寛弘6年の初夏ごろ。

 丹波の守(大江匡衡まさひら)の北の方を、中宮様や、殿などのところでは、匡衡衛門(赤染衛門)と言っている。歌は格別優れているわけではないが、じつに風格があり、歌人だからといって、すべてのことに歌を詠むことはしないが、世に知られている歌はすべて、ちょっとしたときの歌も、それこそこっちが恥ずかしくなるような詠みっぷりである。(それに対し)ややもすると、上の句と下の句がつながらない「腰折れ歌」を詠んで、なんとも言いようがない気取ったことをしても、じぶんこそ優れた歌人だと得意がってる人は、憎らしくも気の毒にも思われる。

 ※赤染衛門 道長家女房。大江匡衡の妻。歌人で三十六歌仙の一人。『栄花物語』正編の作者と伝えられる。

 清少納言こそ、得意顔に偉そうにしていた人。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしているけど、よく見れば、まだいたらないところが多い。このように、人より特別に勝れようと意識的にふるまう人は、かならず見劣りし、将来は悪くなるばかりだし、風流を気取る人は、ひどく寂しくつまらない時でも、しみじみ感動してるようにふるまい、興あることを見逃さないようにしているうちに、しぜんと見当はずれの浮薄な態度にもなるだろう。そういう軽薄になってしまった人の最後が、どうしてよいことがあろうか。

 ※清少納言 清原元輔の娘。一条天皇皇后定子に仕えた才媛で、『枕草子』の作者。晩年は不幸落魄の身。

 すでに『枕草子』を著して才女として名高い清少納言を痛烈に批判している。

〔49〕わが身をかえりみて  

 このように、あれこれにつけて、なにひとつ、思い出となるようなこともなくて、過ごしてきたじぶんが、(夫を亡くして)将来の希望もないのは、慰めるすべもないが、すさんだ心で自暴自棄になるのだけはやめよう。そうした思いが依然として消えないのか、物思いがます秋の夜、縁近くに出て空を眺めていると、ますます、月は昔は(盛りのじぶんを)ほめてくれたのかと、目の前の光景を誘いおこすように思われる。世間の人が忌むという鳥も、きっと飛んでくるだろうと、思われて、すこし奥に引っ込んでも、やはり心の中では際限もなく物思いを続けている。  
 風の涼しい夕暮れに、聞くにたえない琴をひとり鳴らしては、「悩みを重ねた(女がわびしく住んでいる家)」かと聞き知る人もあろうかと、忌まわしく思われるのは、愚かで哀れだ。  

 ※わび人の住むべき宿と見るなべに嘆きくははる琴の音ぞする(古今集)  

 とはいっても、見苦しく黒ずんで煤けた部屋に、筝の琴(十三絃の琴)、和琴(六絃の琴)が、調律したまま、気をつけて、「雨の降る日は、琴柱を倒せ」などとも言わないのでそのままに、塵も積もって、寄せて立てかけてあった厨子と柱との間に首をさし入れたまま、琵琶もその左右に立てかけてある。大きな厨子一対に、隙間もなく積んであるのは、一つには古歌や、物語の本が言いようもなく虫の巣となってしまったもので、気味悪いほどに虫が逃げだすので、開けて見る人もいない。もう一方には、漢籍類、大切に所蔵していた夫も亡くなってしまった後は、手を触れる人も特にいない。漢籍類を、どうしようもなく寂しくてしょうがないときに、一冊二冊引き出して見てるのを、(式部に仕えている)女房たちが集まって、「ご主人はいつもこんなふうだから、幸せが少ないのよ。どういう女が漢籍を読むの。昔は女が経を読むのさえ止められた」と、陰口を言うのを聞いても、縁起をかついだ人が、将来長寿だということは、見たこともないと、言ってやりたいけど、それでは思いやりがないし、侍女たちの言うことももっともなので。
 すべてのことは、人によってさまざま。得意そうに派手で、、気持ちよさそうに見える人もいる。すべてにあてもなく寂しい人が、気のまぎれることがないままに、思い出の手紙を探し出して読んだり、仏への勤めに身を入れて、お経を絶えず唱え、数珠音高くもんだりするなど、あまり好感が持てないやり方だと思うので、じぶんの思うままにしてよいことまで、わたしの侍女たちの目を憚って、心の中におさめている。まして宮仕えで人中にまじってはろ、言いたいこともあるけど、言わないほうがいいと思えて、わかってくれそうもない人には、言っても無駄だし、なにかと人を非難し、じぶんこそはと思っている人の前では、面倒なので、口をきくのもおっくう。特になにもかもすべてに通じている人はめったにいない。ただ、じぶんがこうと決めこんだこと(主義主張)で、他人を無視しているようなものだ。
 
そんな人は、ほんとうの心とは裏腹のわたしの表情を恥ずかしがっているのだと見るけれど、(そんなことはなく)面と向かって人に真向かいで座っていたこともあるが、あんなようなものだと非難されないようにしようと、恥ずかしいわけではないけど、(弁解するのが)面倒だと思って、ぼんやり呆けてしまった人間のようにみせかけていると、「こんな方だとは思わなかった。ひどくあでやかに取り澄ましていて、気難しげに、よそよそしい感じで、物語を好み、風流ぶって、なにかというと歌を詠んだりして、人を人とも思わないで、憎らしいほど人を見くだす人なんだと、だれもが言ったり想像したりして反感を持っていたのに、会ってみると、不思議なほどおっとりしていらっしゃって、まるで別人かと思われるほど」と、みなが言うので、きまりが悪く、人からこうまでおっとり者と見くだされたのだなあと思うけれど、ただこれがじぶんの本心だというように、ふるまっているわたしの様子を、中宮様も、「ほんとうに打ち解けてはつきあえないと思っていたけど、ほかの人よりずっと仲良くなったわね」と、言われる時もある。個性的で、優雅にふるまい、中宮様に尊重されている上流の女房の方たちにも、反感を持たれたりしないようにしなければと思う。

 紫式部は、宮廷生活の中で、じぶんを隠すことに懸命だ。なぜなら、内面にはびこる魔を、作品のほかの世界で放てば、人間の顔をした怪物みたいに思われてしまうからだ。これは古典近代期の芸術家たちの<内心の仮装>と似たものといっていい。


〔50〕人の心さまざま  

 見苦しくないよう、すべて女は穏やかに、心の持ち方もゆったりとして、落ち着いていることを基本としてこそ、品位も風情も、魅力的で親しみがもてる。あるいは、色っぽく移り気であっても、生来の人柄にくせがなく、周囲の人にもつきあいにくい様子をしないようになってしまえば、憎いことはない。じぶんこそはちがうと、人の関心を引くことに慣れて、態度が仰々しくなった人は、立ち居振る舞いだって、じぶんで気を配っているときでも、その人には目がとまる。目がとまれば、かならずものを言う言葉の中にも、来て座る動作にも、立ってゆく後姿にも、かならずそうした癖はみつけられるものだ。言うことが少しちぐはぐな人と、他人のことをすぐけなしてしまう人とは、なおさら注意深く聞いたり見たりされるようになる。悪い癖のない人であれば、なんとかして、ちょっとした批判の言葉も聞かなかったことにして、形だけでも好意をかけてあげたくなる。  
 人が故意に、いやなことをした時は、悪いことを誤ってやった時でも、これを笑っても、遠慮はいらないと思う。とても心の美しい人は、他人がじぶんを憎んでも、じぶんはなおさら、その人を思って世話をするかもしれないけど、普通の人はとてもそんなことまではできない。慈悲深い仏様だって、三宝(仏・法・僧)をそしる罪は軽いなんて説かれているだろうか。まして、これほど濁りきった世俗の人は、こちらにつらくあたる人にはつらくしてもよい。それを、じぶんのほうが上だと言わんばかりに、ひどい言葉を言って、面と向かって険悪な表情でにらみ合ったりするのと、そうではなくて心の中を見せず、表面は穏やかにしているのとの違いによって、心の良し悪しはわかるものだ。  

 紫式部にとって人間の差は、本心を露にするか、包み隠して寛大にふるまうかの違いにある。

〔51〕日本紀の御局・楽府御進講  

 左衛門の内侍(内裏女房、橘隆子)という人がいる。妙にわけもなく不快に思っていたのを、知らないでいたところ、いやな陰口がたくさん聞こえてきた。
 一条天皇が、『源氏物語』を女房に読ませて聞かれていたときに、「この作者は、日本紀を読んでるにちがいない。まことに学識がある」と、言われたのを、内侍が当て推量して、「とっても学問があるんだってさ」と、殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」とあだ名をつけたが、まったく笑止千万なことだ。じぶんの実家の侍女の前でさえ、隠しているのに、宮中のようなところで学識をひけらかしたりするものか。
 わたしの弟の式部の丞(藤原惟規、引きはぎ事件では兵部の丞)という人が、子供のころに漢籍を読んでいた時、そばで聞いて覚えていて、弟が時間をかけて理解したところや、忘れたりしたところでも、わたしは不思議なほど早く理解したので、学問に熱心だった父は、「悔しい! この娘が男子でなかったのは不運だ!」と、いつも嘆いておられた。
 それなのに、「男だって学問をひけらかす人は、どういものだろうか。栄達はしないだろうよ」と、だんだん人が言うのを聞いてからは、「一」という漢字さえ書いてみせないので、とても無学で、あきれるほどだ。かつて読んだ漢籍などというものは、目にもとめなくなっていたのに、ますます、こんなあだ名を聞いたので、これでは人も伝え聞いて憎むことだろうと、恥ずかしさに、御屏風の上に書いてある字さえ読まないふりをしていたのに、中宮様の、御前で、『白氏文集』のところどころを読ませられたりして、その方面のことを知りたそうにしていらっしゃると思われたたので、極力人目を避けて、女房の伺候していないあい間あい間に、一昨年の夏ごろから、「楽府」といふ本二巻を、きちんとではないが教えさせていただいているが、このことも隠している。中宮様も隠されていたが、殿もお上も様子に気づかれて、漢籍などを立派に書家に書かせられて、殿は中宮様にさしあげられた。中宮様がこうしてわたしに漢籍を読ませられていることまでは、さすがに、あの口うるさい内侍も、聞きつけていないだろう。もし知ったら、どんなに悪口を言うかとおもうと、なににつけても世の中というものは煩雑でいやなものである。

 
『紫式部日記』をここまで読んできて、『源氏物語』のすさまじい肉迫力と、骨身をけずるような描写力は、類まれな詩魂と学才を持った、ひとりの容赦ない女流から必然的に生み出されたことを納得する。

〔52〕求道の願いとためらい  

 さあ、今は言葉を慎むのはやめよう。他人が、とやかく言っても、ただ阿弥陀仏を信じて、お経を習おう。世の中の厭わしいことは、すべて露ほども未練はなくなったので、出家しても、仏道修行をなまけることはない。ただそう思って出家しても、来迎の雲に乗らないうちは心が迷うこともあるかもしれない。そんなわけで、出家をためらっている。年齢も、出家に適したころあいになってきた。これ以上老いぼれては、目もかすんでお経も読めないし、心もおっくうになっていくから、信心深い人の真似のようだけれど、今はただ、仏道方面のことだけを考えている。それにしても、わたしのような罪深い人間は、必ずしも出家の願いがかなうとはかぎらない。前世の罪を思い知らされることばかり多いので、なにごとにつけても悲しいことだ。

 出家を望みながら、なお俗世を離れられない人間の宿命的な苦悩。これが後々「宇治十帖」で深く展開されることになるだろう。

〔53〕文をとじるにあたって  

 手紙にうまく書き続けられないことを、良いことでも悪いことでも、世間の出来事や、身の上の憂えでも、残らず言っておきたいと思います。いくら不都合な人を念頭において、申し上げたとしても、こんなことまで書き立ててよいのでしょうか。しかし、あなたもすることがなくて退屈でしょうから、どうかわたしの所在ない気持ちをご覧になってください。また、思っていらっしゃることで、こんな無益なことはたくさんなくても、お書きください。拝見いたしましょう。万が一この手紙がひと目に触れるようなことになったら、ほんとうに大変なことでしよう。世間の耳も多いことです。このごろはいらなくなった手紙もみんな破ったり焼いたりして捨ててしまい、雛遊びの家を作るのに、この春使ってしまってからは、人からの手紙もありませんし、紙にわざわざ書くまいと思ってるのも、人目に立たないようにしているからです。でもそれは悪い事情からではなく、意図してやったことです。この手紙をご覧になったら早くお返しください。あちこち読めないところや、文字の抜けたところがあるかもしれません。そういうところは、構いません、読み過ごしてください。このように世間の人の口の端を気にしながら、最後に書き終えてみると、わが身を捨てきれない未練な心が、こんなに深くあるものですね。われながら一体どうしようというのでしょうか。

 〔46〕人々の容姿と性格の「このついでに・・・・・・」からここまでが消息文といわれている部分である。しかし、この部分はだれかに宛てた消息と見るより、式部が率直な心情を吐露するために、その形式をかりただけと見たほうがいいだろう。

〔54〕御堂詣でと舟遊び 省略

[55]人にまだ折られぬものを  

 『源氏物語』が、中宮様のところにあるのを、殿がご覧になって、いつもの冗談を言い出されたついでに、梅の実の下に敷かれている紙に書かれた。  

 すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ  
 (浮気者と評判がたっているので、おまえを見る人で口説かないですます人はいないと思う)  

 という歌をくださったので、  

 人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけむ  
 (だれにもまだ口説かれたこともないのに、だれがわたしを浮気者などと言いふらしたのでしょう)  

 心外なことだと言った。  

 この段の年時については諸説ある。おそらく寛弘5年の記事が紛れこんだのだろう。  
 道長は、物語の世界でさまざまな恋愛を書く式部を実生活でも恋愛に精通したものとしてからかっているが、このからかいの中には式部を抱いてみたいという本音が混じっていると思う。

[56]戸をたたく人  

 渡り廊下にある部屋に寝た夜、部屋の戸をたたいている人がいると聞いたが、恐ろしいので、返事もしないで夜を明かした翌朝に殿から、  

 夜もすがら水鶏(くいな)よりけになくなくぞまきの戸ぐちにたたきわびつる  
 (昨夜は水鶏以上に泣く泣く槙の戸口で、夜通したたき続けたよ)  

 返歌  

 ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし  
 (熱心に戸をたたかれたあなただから、戸を開けたらどんなに後悔したことでしょう)

 
藤原道長は紫式部にとって尊敬できる人間味にあふれた殿であったが、このように夜更けに戸を叩いて、強引に肉体関係を持とうとする老醜の男でもあったのだ。

[57]若宮たちの御戴餅―寛弘7年正月  

 今年は正月三日まで、若宮たち(敦成あつひら親王、敦良あつなが親王)の御戴餅の儀式のために毎日清涼殿にのぼられる、そのお供に、みな上臈女房たちも参上する。左衛門の督(藤原頼通19歳)が抱かれて、殿が、お餅は取りついで、一条天皇に差し上げられる。二間の東の戸に向かって、お上が若宮たちの頭上にお餅をいただかせられるのである。若宮たちが抱かれてお上の前に参上したり退下されたりする儀式は見物である。母宮様はのぼられなかった。  
 今年の元日は、御薬の儀の陪膳役は宰相の君で、例の衣装の色合など格別で、実に素晴らしい。御膳を取りつぐ女蔵人は、内匠と兵庫が奉仕する。髪上げした容貌などは、陪膳役の方が格別りっぱに見えるけど、そのおつとめの胸中を察すると、わたしはたまらなくせつない気持ちになる。御薬の儀の女官の、文屋の博士(内裏女房、文屋時子)は、利口ぶって才ありげにふるまっていた。献上された膏薬(唐薬)が配られたが、それは例年行われることである。

 ※膏薬(皇薬)を忌んで唐薬という。正月3日に典薬寮から膏薬献上の儀があり、天皇はこれを右の薬指で額と耳の裏に塗る。式後人々にも配った。

[58]中宮の臨時客・子の日の遊び  

 二日、中宮様の宴はとりやめになって、臨時客が、東面の間をとり払って、例年のとおり行われた。列席の公卿たちは、傅(ふ)の大納言(藤原道綱)、右大将(藤原実資)、中宮の大夫(藤原斉信)、四条の大納言(藤原公任)、権中納言(藤原隆家)、侍従の中納言(藤原行成)、左衛門の督(藤原頼通)、有国の宰相(藤原有国)、大蔵卿(藤原正光)、左兵衛の督(藤原実成)、源宰相(源頼定)らが、向かい合って座っておられた。源中納言(源俊賢)、右衛門督(藤原懐平)、左(源経房)右(藤原兼隆)の宰相の中将は、長押の下手の、殿上人の上座に着かれた。殿が若宮を抱かれて出てこられて、いつもの挨拶を若宮に言わせたりして、可愛がられ、北の方に、「弟宮(敦良親王)を抱いてあげよう」と、殿が言われたのを、兄宮(敦成親王)がひどくやきもちを焼かれて、「いや」と駄々をこねられるのを、殿は可愛く思われて、あれこれなだめあやされるので、右大将などはおもしろがっていらっしゃる。  
 それから公卿たちは清涼殿に参上して、お上も、殿上の間に出てこられて、管弦の御遊があった。殿は、いつものように酔っていらっしゃる。わたしは避けたいと思って、隠れていたのに、「どうして、おまえの父は、わたしが御前の御遊びに呼んでやったのに、伺候もしないで急いで帰ったのか。ひねくれてる」などと、気分を害しておられる。「その罪が許されるほどの和歌を一首詠め。父親のかわりに。今日は初子の日だ。詠め、詠め」と責められる。すぐに歌を詠んだら、みっともないことだろう。ひどく酔っていらっしゃるので、ますます顔色が美しく、灯火に照らされた姿は輝き映えて素晴らしく、「ここ数年来、中宮が寂しそうな様子で、一人でいたのを、侘しく見ていたが、このようにうるさいほどに、左右に若宮たちを拝見するのは嬉しいこよ」とおっしゃって、お休みになっている若宮たちを、帳台の垂絹を何度も開かれては見ておられる。「野辺に小松のなかりせば」と口ずさまれる。新しく歌を詠まれるより、こういうときにぴったりの歌を出してこられる、殿の様子が、わたしには立派に思われた。  

 ※子の日する野辺に小松のなかりせば千代のためしになにを引かまし(「拾遺集」春、壬生忠岑)  

 二皇子を得た道長の喜びに式部も共感している。

〔59〕中務の乳母  

 つぎの日の、夕方、早くも霞んでいる空を、幾重にも建ち並んだ殿舎の軒が隙間もないので、ただ渡り廊下の上の空をわずかに眺めながらだが、中務の乳母(中宮女房、源隆子)と、昨夜の殿が口ずさまれたこと(野辺に小松のなかりせば)をほめあう。この命婦は、ものの道理をわきまえた、よく気がきくお人です。  

 敦良親王の乳母である中務の命婦にとっても、道長が「野辺に小松のなかりせば」と口ずさんだことは当然嬉しいことだった。

〔60〕二の宮の御五十日―正月十五日

 ほんのちょっと里に帰って、二の宮(敦良親王)の御五十日のお祝いは、正月十五日なので、その明け方に参上したが、小少将の君(源時通の娘)は、すっかり夜が明けた間が悪いほどのころに参上された。いつものように同じ部屋にいた。二人の部屋を一つに合わせて、一方が実家に帰っているときもそこに住んでいる。一緒にいる時は、几帳だけを仕切りにして暮らしている。殿はお笑いになる。「お互いに知らない男でも誘ったら、どうするつもりだ」などと、聞きにくいことを言われる。でも、ふたりとも、それほどよそよそしくないので、安心である。  
 日が高くなってから中宮様のもとに参上する。あの小少将の君は、桜の綾織の袿に、赤色の唐衣を着て、いつもの摺裳をつけておられた。わたしは紅梅の重袿に萌黄まの表着、柳襲の唐衣で、裳の摺り模様なども現代風で派手で、とりかえたほうがよさそうなほど若々しい。お上付きの女房たち17人が、中宮様の御方に参上した。弟宮の陪膳役は橘の三位(内裏女房、橘仲遠の娘徳子)。取次役は、端の方に小大輔(中宮女房)、源式部(中宮女房)、内には小少将の君が奉仕する。  
 帝と、中宮様とが、御帳台の中にお二人で一緒におられる。朝日がさして光り輝いて、まばゆいばかり立派な御前の情景である。お上は、御引直衣に小口袴を着用され、中宮様はいつもの紅の袿に、紅梅、萌黄、柳、山吹の袿を重ねられ、上には葡萄染めの織物の表着を着られ、柳襲の上白の御小袿の、紋様も色合いも珍しく当世風なのを着ておられる。あちらはとても目立つので、わたしはこちらの奥にこっそり入りじっとしていた。
 中務の乳母が、弟宮を抱かれて、御帳台の間から南面の方に連れて行かれる。よく整っていてすらりとはしていない容姿で、ただゆったりと、重々しい様子で、乳母として人を教育するのにふさわしい、才気の感じられる雰囲気がある。葡萄染めの織物の小袿と、紋様のないの青色の表着の上に、桜襲の唐衣を着ていた。  
 その日の女房たちの衣装は、だれもかれもが華麗を尽くしていたが、袖口の色の配色のよくない人でも、御前の物を受け取る時に、大勢の公卿たちや、殿上人たちに、袖口をまじまじと見られてしまったと、あとになって宰相の君なども、悔しがっていらっしゃったようだ。とはいっても、それほど悪いというほどでもなかった。ただ色の取り合わせが引き立たなかっただけだ。小大輔は、紅の袿一重に、上に紅梅の袿の濃いのや薄いのを五枚重ねていた。唐衣は、桜襲。源式部は濃い紅の袿に、さらに紅梅襲の綾の表着を着ていたようだ。唐衣が織物でなかったのをよくないとでもいうのだろうか。でもそれは禁色だから無理というもの。公の晴れの場でこそ、過失がはた目にちらりと見えた場合なら、批判されてもよいだろうが、衣装の優劣は身分上の制約もあることだから言うべきではない。  
 弟宮にお餅を献上なさる儀式なども終わって、御食膳なども下げて、廂の間の御簾を巻き上げる、そのそばにお上付きの女房たちは、御帳台の西側の昼の御座の向こうに、重なるようにして並んでいた。橘三位の君をはじめとして、典侍たちも大勢参上していた。  
 中宮付きの女房たちは、若い人々は廂の長押の下手、東の廂と母屋の間の南側の襖を取り外して御簾をかけてある所に、上臈の女房たちは座っていた。御帳台の東側の隙がわずかにあいてる所に、大納言の君や小少将の君が座っていらっしゃる、そこにわたしは訪ねていって祝宴を拝見する。  
 お上は、平敷のご座所につかれ、御食膳が差し上げられ並べられた。お膳の調度や、飾りつけの様子は、言いようがないほど立派である。縁側には、北向きに西の方を上座にして、公卿たちは、左・右・内の大臣たち、東宮の傅、中宮の大夫、四条の大納言と並び、それより下座は見ることができなかった。  
 管弦の御遊が催される。殿上人は、こちらの東の対の東南にあたる廊に伺候している。地下の席は決まっている。景斉の朝臣、惟風の朝臣、行義、遠理などというような人がいた。殿上では、四条の大納言が拍子をとり、頭の弁が琵琶、琴は□(不明)、左の宰相の中将が笙(しょう)の笛ということである。双調の調子で、「安名尊(あなとうと)」、次に「席田(むしろだ)」「此殿(このとの)」などを謡う。楽曲は、鳥の曲の破と急を演奏する。戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く。歌に拍子を打ち間違えて、とがめられたりする。つぎに「伊勢の海」を謡う。右大臣は、「和琴が実に見事だ」などと、聞きながらほめられる。戯れておられたようだが、そのあげくにひどい失態をされた気の毒さは、見ていたわたしたちも体がひやりとしたほどだった。殿からの帝への献上物は、横笛の「歯二(はふたつ)」で、箱に納めてられて差し上げられたと拝見した。  

 ※右大臣藤原顕光が酔って御膳の鶴の飾り物を取ろうとして折敷をこわしてしまったことをさす。(御堂関白記)  
 ※笛は道長が、去る11日に花山院御匣殿(みくしげどの)から賜った名笛である。


〔3〕朝露のおみなえし

 ある朝、殿(道長43歳)は女郎花を一枝折って、几帳越しにわたしに見せられる。そのお姿の立派さにくらべ、寝起きの顔が見苦しいので、殿が「この花の歌、遅くなってはいけないだろうな」と言われたのをよいことにして、硯のそばに行った。

 をみなえしさかりの色を見るからに露のわきける身こそ知らるれ
 (盛りの女郎花に比べ、自分の容貌の衰えは・・・)

「おお早い」とにっこりされて、殿は硯を取り寄せになる。

 白露はわきてもおかじをみなへしこころからにや色の染むらむ
 (女は心のもちようで美しくなれるよ)

 女郎花を見せる趣向や歌のやり取りは、単なる主人と女房以上の関係か?

〔4〕殿の子息三位の君

 三位の君(道長の長男頼通17歳)がいらっしゃって、「気立てのいい女性は、めったにいないものだね」なとど、男女関係の話をしておられる様子は、世間の人が言うようにまだ若いなどとは言っておられず、こっちが恥ずかしくなるほど立派である。あまり打ち解けた話にならない程度で退出されたさまは、それこそ物語で褒めている男君そっくりだ。
 このくらいのちょっとしたことで、後々ふと思い出されることもあるのに比べ、その時はおもしろいと思ったことでも時がたつと忘れてしまうことがあるのは、いったいどういうわけだろう。

 朝の道長の戯れと夕の頼通の端正なふるまい。この父子の対照は、物語の光源氏と夕霧の対照になぞらえられる。

 〔5〕〔6〕省略

〔7〕宰相の君の昼寝姿―8月26日

 中宮様の御前からもどる途中、弁の宰相の君(藤原道綱の娘豊子)の部屋をのぞいてみると、ちょうどお昼寝の最中。萩や紫苑の色とりどりの袿に、濃い紅の艶やかな打衣をはおって、顔は襟の中に入れて、硯箱を枕にして寝ていらっしゃる。その額がとても可愛らしくなよやかで美しい。まるで絵に描いてあるお姫様のようなので、口を覆っている袖を引っぱって、「まるで(こまのの)物語のヒロインのよう」と言うと、宰相の君は目をあけて、「気でも狂ったの、寝てる人を起こすなんて」と言って起き上がられた顔が、思わず赤くなってたのは、ほんとに美しかった。
 ふだんでも美しい人が、こんなことで特別に美しく見えた。

 昼寝姿に物語のヒロインを連想して思わず声をかけてしまう。つまり、現実の中に物語世界を発見して感動してしまう紫式部は、熱心な物語読者であり、また物語作者としての資質もうかがわれる。

〔8〕重陽の菊の着せ綿―9月9日

 重陽の節句の9月9日、兵部のおもと(女房の敬称)が菊の着せ綿を持ってきて、「殿の北の方(鷹司倫子)がこれを特別にあなたにって。これでよく顔や体をぬぐって、老いを取り除きなさいって」と言うので、

 菊の露わかゆばかりに袖ふれて花 のあるじに千代はゆづらむ
 (わたしはちょっと若返れば・・・千代の長生きは北の方に)

 と詠んで、着せ綿を返そうとしたら、「北の方はもう帰ってしまわれたわ」というので、しかたなくそのままにしてしまった。

※着せ綿 重陽の節句の前夜、菊の花に真綿を覆っておき、あくる朝夜露に濡れて菊の香りがうつった綿で顔や体をぬぐうと老いが除くと信じられた。

 遠い血縁関係の倫子の長寿を祝う心。

〔9〕同日の夜、中宮産気づく

 中宮様はいつもよりお苦しい様子なので、加持などもなさるところなので、なんだか落ち着かなくて(中宮の)几帳の中へ入った。
 そのうち人が呼んでいるというので、自分の部屋に下がって、しばらく休もうと思って横になったところ、寝てしまった。夜中ごろに中宮様が産気づいたと大騒ぎしている。

〔10〕修験祈祷のありさま―9月10日

 10日の夜が明けるころ、御座所の調度や設備や衣装などが白一色に変えられる。中宮様は白木の御帳台に移られる。殿をはじめ、ご子息や四位五位の人々が騒ぎながら、御帳台の垂絹や帳台の中に敷く上筵(うわむしろ)や茵(しとね)などを運ぶさまは、ほんとに騒がしい。
 中宮様は一日中とても不安そうに、起きあがったり横になられたりしながら過ごされた。修験僧は物の怪を調伏しようと大声で祈り続けている。ここ数ヶ月詰めている邸内の僧たちはいうまでもなく、諸国の寺をたずねて、修験僧という修験僧は一人残らず参集し、その祈祷に三世(前世・現世・来世)の仏も調伏のためにどんなに空を飛びまわってることだろう。陰陽師もあらゆる人を集めて祈らせたので、八百万の神々も聞いてくださらいわけがないだろう。

※当時、病気や難産の原因は物の怪の祟りとされた。

○御帳の東の間―内裏の女房
○西の間―物の怪がのりうつった人々
○南の間―僧正・僧都という高僧
○北の御障子と御帳の間―40数人の人々

 実家から来た人たちは、せっかく来たのに邪魔者あつかいにされて座らせてもらえず、裳の裾や着物の袖が人混みでどこにあるかわからない。
おもだった古参の女房たちは、中宮様の容態を案じて、泣きながらおろおろしている。
 
 中宮のお産直前、権力・財力をあげての安産祈願。騒動の中での式部の冷静な観察力。

〔11〕安産を待ち望む人々―9月11日

 11日の明け方にも、北側の襖を二間とりはらって、中宮様は難産のために場所を忌み嫌って、北廂の間に移られる。御簾などもかけることができないので、御几帳を重ね立てて、その中にいらっしゃる。観音院権僧正勝算、定澄僧都、権法務済信権大僧都などがそばについて加持される。院源僧都(第26代天台座主)が、きのう殿が書かれた安産願いに、さらに尊い言葉を書き加えて、読み上げる言葉が、身にしみるほど尊く、心強く思われるのに、そのうえ殿が一緒になって仏の加護を祈られるのはとても頼もしく、まさかのことはないだろうと思うが、やはりひどく悲しいので、みんなは「ほんとに不吉な」「そんなに泣くな」などと言い合って、涙をおさえることができないのである。
 こんなに人が多くては、中宮様もなおさら苦しいだろうと、殿は女房たちを南や東の間に出されて、どうしてもいなければならない人たちだけが、この二間の中宮様の側に控えている。殿の北の方、讃岐の宰相の君(豊子)、内蔵の命婦(道長の五男教通の乳母)が御几帳の中に、それに仁和寺の僧都、三井寺の内供を呼び入れられた。殿が万事に大声で指図される声に、僧も圧倒されて読経の声も静になったように思われる。
 もう一間にいる人たちは、大納言(中宮女房、廉子)、小少将(中宮女房、源時通の娘)、宮の内侍(中宮女房、橘良芸子)、弁の内侍(中宮女房、藤原義子)、中務(中宮女房、中務少輔源至時の娘)、大輔の命婦(中宮女房、越前守大江景理の妻)、大式部(道長家女房)のおもと、この人はこの邸の帝の口宣を蔵人に伝える人です。いずれも長年お仕えしている人ばかりで、心配して取り乱しているのはもっともだが、まだ中宮様に仕えて日が浅いわたしなど、比べものにならないほど大変なことだと思われた。
 また、わたしたちの後ろに立ててある几帳の向こう側に、尚侍(道長の次女妍子当年15歳)の中務の乳母(藤原惟風の妻高子)、姫君(道長の三女威子当年10歳)の少納言の乳母(道長家女房)、幼い姫(道長の四女嬉子当年2歳)の少納言の乳母(道長家女房藤原泰通の妻)などが無理に入り込んで、二つの御帳台の後ろの細い通路は容易に通ることができない。すれちがったり、動いたりする人は、お互いの顔など見分けられない。殿のご子息たち(頼通17歳、教通13歳)や、宰相の中将(藤原兼隆)、四位の少将(源雅通)などはもちろん、左の宰相の中将(源経房40歳)、宮の大夫(中宮職の長官、藤原斉信)など、いつもはあまり親しくない人たちも、几帳の上からのぞいたりして、泣きはらした目など見られるのも、恥もなにもかも忘れていた。頭上には魔除けの米が雪のように降りかかっているし、混雑でしわになった着物がどんなに見苦しかっただろうと、後になって考えるととてもおかしい。

 道長の姿を浮かび上がらせる文章。

〔12〕若宮の誕生
 
 中宮様のお産が重いので、仏の加護を頼んで髪を形式的に剃って受戒(仏道でいう殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒の五戒)をして安産を願っている間、途方にくれて、どうしたことかと、悲しいときに、安らかに出産されて、後産のすまない間、あれほど広い母屋から廂の間、縁の欄干までいる僧侶も俗人も、もう一度大声でお祈りをして礼拝する。
 東面にいる女房たちは、殿上人にまじって座るような状態で、小中将(中宮女房)が左の頭の中将(近衛中将で蔵人頭を兼ねた者)とばったり顔をあわせてあきれていた様子を、後になってみんなが言いだして笑う。この小中将はいつも化粧がいきとどいた美人で、この時も明け方に化粧をしたのだが、泣いたため、化粧くずれがして、あきれるほど変わってしまい、とてもその人とは思えなかった。あの美しい宰相の君も顔が変わってしまっていることも、ほんとうに珍しいこと。まして私などはどんなであったか。でも、そのときに顔をあわした人の様子が、お互いに思い出せないのはよかった。
 いよいよ出産なさる時、物の怪がくやしがってわめく声はなんと恐ろしいことか。
 (中略)

 午の刻に、空晴れて、朝日さし出でたる心地す。
 安産でいらっしゃった嬉しさはくらべようがないが、その上皇子でいらっしゃった喜びといったら、ひととおりではない。きのうは一日中泣いていて、今朝も泣いていた女房なども、みな局に引きとって休む。中宮様には年配で産後にふさわしい人が付き添う。

 若宮誕生の喜びの表現。ここに道長の栄華の基礎が固められる。

[13]人々のよろこび

 殿も北の方も、あちらの部屋に移られて、この数ヶ月御修法や読経に奉仕したり、またきのうときょう参集した僧侶たちにお布施をたまわったり、医師や陰陽師などで効験があった者に褒美(衣類・絹・布など)をお与えになったり、内々では沐浴の儀式の準備をあらかじめさせていらっしゃるらしい。
 
 (中略)
 
 殿は縁先に出られて、随身に落ち葉などで埋もれた遣水の手入れをさせ、まわりの人々も、いかにものどかで心地よさそうである。心配事のある人も、このときばかりはふと忘れてしまいそうで、中宮様は得意気な笑顔をなさるわけではないが、嬉しさはだれよりもで、しぜんと顔に表れるのもうなづける。宰相中将は権中納言とふざけて、東の対屋の縁側にいらっしゃる。

 〔14〕〔15〕〔16〕〔17〕省略

[18]五日の御産養―9月15日の夜

 誕生五日目の夜は、殿の御産養(おんうぶやしない)。十五夜の月がくもりなく美しい上に、池の水際近くにかがり火を木の下にともして、屯食を50具立てる。身分の低い男たちがしゃべりながら歩きまわる様子なども、晴れがましさを際立たせているようだ。主殿寮の役人たちが松明をかかげて並んでいて、昼のように明るいので、あちこちの岩の陰や木の下に集まっている上達部の随身でさえ、おのおの話し合っている話題は、このような世の中の光といえる皇子が誕生なさることを、かげながら思っていて、じぶんたちの望みどおりであったという顔つきで、相好をくずして、うれしそうにしている。まして、この土御門の人たちは、五位の者までもが、来客に会釈して行ったり来たりして、いそがしそうな様子をして、得意顔である。
 
 権勢に盲従する下役たちを描写する紫式部の辛辣な眼。

 中宮様にお膳をさしあげるというので、女房8人、白一色に装束して、髪を結い上げて、白い元結をして、白銀の御盤をささげて一列になって入っていった。今夜の給仕役は宮の内侍(中宮女房、橘良芸子)、堂々としていて、とても美しい容姿に、白元結にいっそう際立って見える髪の下がりは、いつもより好ましく、扇からのぞかれる横顔は、ほんとうに美しかった。
 この夜の8人(源式部<げんしきぶ>・小左衛門<こざえもん>・小兵衛<こひょうえ>・大輔<たゆう>・大馬<おおうま>・小馬<こうま>・小兵部<こひょうぶ>・小木工<こもく>)はみな美しい若女房ばかりで、向かい合って座っている様子は、見ばえのあるものでした。いつもは中宮様にお膳をさしあげるとき、髪を結い上げることはしているのだが、このような晴れがましいときなので、わざわざしかるべく女房を選ばれたのに、人前に出るのがつらいとかいやだとかいって、嘆いたりして、まったく縁起が悪いことだと思われた。

 美しさを褒め称えたと思ったら、大役を恥ずかしがった若女房たちへの不満。紫式部特有の表現。

 めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千代をめぐらめ
 (おりからの十五夜の月に縁のある言葉を用いて、皇子誕生の慶賀の意をあらわした歌))
 「さかづき」に「栄月」を、「もち」に「望」をかけ、「さしそふ」に「光がさす」と「杯をさす」の両用をきかせる。「光」「さしそふ」「もち」「めぐる」は月の縁語。

〔19〕月夜の舟遊び―9月16日

 つぎの日の夜、月がとても美しく、そのうえ時候も風情あるときなので、若い女房たちは船に乗って遊ぶ。色とりどりの衣装を着ているときよりも、白一色の装束をつけている容姿や髪が、清浄で美しく見える。
 (中略)
 一部の女房たちは(船に乗らないで)そっとぬけて残ったが、やはりうらやましいのだろうか、池のほうに目をやっていた。真っ白な白砂の庭に、月の光が照り返し、女房たちの白装束の姿や顔つきも、風情がある。 
 (中略)
 内裏の女房たちの突然の訪れに、船に乗っていた若い人たちも、あわてて家の中に入った。殿が出てこられて、なにもないご様子で、歓待したり、冗談をおっしゃる。内裏の女房たちへの贈物を、それぞれの身分に応じて与えられる。

 黄、白、黒のシンプルなカラー表現。

〔20〕7日の御産養―9月17日

 誕生7日目の夜は朝廷主催の御産養。蔵人の少将を勅使として、天皇から若宮に贈られる目録を、柳筥(やないばこ)に入れて来られた。中宮様はそれをご覧になると、そのまま宮司に返される。歓学院の学生たちが、整然と威儀を正して歩いてくる。その参賀の人々の連名簿などを、中宮様にご覧にいれる。中宮様はこれもすぐに宮司に返される。禄なども賜れるだろう。今夜の儀式は朝廷の御産養なので一段と盛大で、大騒ぎしている。

 ※歓学院は左大臣冬嗣が藤原氏の子弟教育のために開いた私学校。氏の長者の家に慶事があるときは、学生が別当(長官)に引率されて参賀する。そして、この参賀には、練歩除歩などの一定の作法があり、これを「歓学院のあゆみ」といった。

 中宮様の御帳台をのぞいたところ、このような国の母として崇められる麗しい様子でもなく、少し苦しげで面やつれしてお休みになっておられる様子は、いつもより弱々しく、若くて美しい。小さな灯炉が御帳台の中にかけてあるので、すみずみまで明るく、美しいお肌が一段とすきとおるようにきれいで、ふさふさとした髪は、横になって乱れないように元結でくくられると、いっそうふさふさとして見事である。こんなことを言うのも、いまさらという気がするので、よく書き続けることができません。
 だいたいの儀式は、先日5日の夜の御産養と同様である。
 (中略)
 八日目の日、女房たちは、色とりどりの衣装に着替えた。

 中宮に慕わしさをつのらせる紫式部。
 
〔21〕9日の御産養―9月19日の夜

 誕生9日目の夜は、東宮の権の大夫(道長の長男、藤原頼通 )が御産養を奉仕される。白い御厨子一対に、お祝いの品々がのせてある。儀式は変わっていて現代ふうである。
 (中略)
 今夜は、(白一色の几帳から)朽木形の模様のある几帳をいつもどおりに立てて、女房たちは濃い紅の打衣を着ている。それが今までの白装束を見なれた目には目新しく、奥ゆかしくて優美に見える。すきとおった薄物の唐衣を通して、つやつやした打衣が見える。そして思い思いの衣装に、一人ひとりの姿もはっきり見える。

 白から色彩への転換。「めずらしく」「なまめいて」「つやつやと」という表現

〔22〕初孫をいつくしむ道長

 10月10日あまりまでも、中宮様は(産後の養生のため)御帳台から出られない。女房たちは、その東母屋の西寄りにある御座(おまし)に、夜も昼もひかえている。
 殿が夜中や明け方にもいらっしゃっては、乳母のふところをさがして若宮をのぞかれるのだが、乳母がうちとけて寝ているときなどは、はっとして目をさますのも、ほんとうに気の毒なことだ。若宮はなにもわからないのに、殿が抱き上げて可愛がられるのは、もっともで結構なことである。
 ある時、若宮が殿におしっこをひっかけられたのを、殿は直衣の紐をといて脱がれ、御几帳のうしろで火にあぶって乾かさられる。「ああ、若宮のおしっこに濡れるのも、いいものだな。この濡れたのを、あぶるのも、ほんとうに思い通りにいったような気持ちだ」と喜ばれる。

 初孫におしっこをかけられて喜ぶ道長の人間性に共感する紫式部。

〔23〕中務の宮家との縁

 中務(具平親王は村上天皇第七皇子。当年45歳 )の宮家のことを、殿は一生懸命(道長は長男頼通と具平親王の娘隆姫との結婚を切望)になられて、私をその宮家に縁故のある者と思われて、いろいろ相談なさるのも、ほんとうのところ、さまざまな思案にくれることが多かった。

 ※道長は宇多帝の皇孫源雅信の娘倫子、醍醐帝の皇子源高明の娘明子を妻室に迎えている。

 道長がさらに望むものは皇室の尊貴の血統。式部はこれを複雑な思いで見ている。

[24]水鳥に思いをそえて

 一条天皇の土御門邸への行幸が近くなったので、邸を一段と手入れして立派にされる。見事な菊の株を、あちこちからさがしては、掘って持ってくる。さまざまに美しく色変わりした菊も、黄色が見どころの菊も、さまざまに植えてある菊も、朝霧の絶え間に見わたした光景は、昔からいうように、老いもどこかに退散してしまうような気がするのに、どうしてかわたしは・・・・・・わたしの物思いがもう少しふつうであったならば、風流を楽しんで若々しくして、この無常な世を過ごせるのに、どういうわけか、めでたいことやおもしろいことを、見たり聞いたりすると、ただもうつねづね思っている出家遁世に、ひきつけられるほうが強くて、憂鬱で、ままならず、嘆かわしいことばかり多くなって、とても苦しい。でも、今はなにもかも忘れてしまおう、いくら思ってもしょうがないことだし、罪深いことだ、などと、夜が明けると、ぼんやり外をながめて、池の水鳥たちがくったくなく遊んでいるのを見る。

 水鳥を水の上とやよそに見むわれも浮きたる世をすぐしつつ
 (水鳥を他人事とは思えない。このわたしだって同じように、浮ついた日々を過ごしている)

 あの水鳥たちも、楽しそうに遊んでいると思えるが、その身になってみれば、きっと苦しいだろうと、ついわが身と重ねてしまう。

 現世的栄華に溶け込めない紫式部。そこに身をおけばおくほど、仏道にひかれてゆく自分をどうすることもできない。
 キーワード「なぞや(慨嘆)」
 華麗な宮廷社会と自己との隔絶に懊悩する紫式部。

 
これ以後、「源氏物語」は、ブラック(暗黒)の世界に突き進むのではないか? 劇作「紫式部考」の第3部ブラック編の幕開きはこの場面を採用することにしよう。

[25]時雨の空

 小少将の君(紫式部と特に親しかった中宮女房、源時通の娘)の、手紙の返事を書いていると、時雨がさっと降ってきたので、使いの者も返事を急ぐ。「わたしだけでなく、空の景色もざわついてる」と返事の末尾にそえて、拙い歌を書いてあげた。もう暗くなっているのに、返事がきて、紫色に濃く染めた雲紙に、

 雲間なくながむる空もかきくらしいかにしのぶる時雨なるらむ
 (時雨はなにを恋いしくて降っているのでしょう。それはあなた恋しさのわたしの涙の時雨みたい)

 前の手紙にどんな歌を書いたのか思い出せないままに、

 ことわりの時雨の空は雲間あれどながむる袖ぞかわくまもなき
 (時節柄降る時雨の空は雲の絶え間もあるけれど、あなたを思うわたしの袖はかわくひまもないの)

 小少将の君は、内面の苦悩も語り合え、慰めあえる無二の親友。

[26]土御門邸行幸―10月16日

 一条天皇行幸の当日、新しく作られた船を、殿は池の水際に寄せてご覧になる。竜頭や鷁首の船が、生きている姿が想像されるほどで、鮮やかに美しい。
 行幸は朝8時頃ということで、明け方から女房たちは化粧をして用意をする。上達部の席は、西の対屋なので、こちらの東の対のほうはいつもどおりで騒がしくない。あちらの内侍の督(道長の娘妍子)では、中宮さまのほうより女房たちの衣裳なども、たいそう立派に支度なさるらしい。
 明け方に、小少将の君が実家から帰ってこられた。一緒に髪をといたりする。例によって、行幸は8時だといっても、遅れて日中になるだろうと、ついぐずぐずしていて、扇が平凡なので、別にあつらえたのを、持ってきてほしいと待っていたところ、行幸の鼓の音を聞いて、あわてて御前に参上するのもみっともないこと。
 天皇の御輿を迎える船楽が、とてもおもしろい。御輿をかつぎ寄せるのを見ると、かつぐ人が、身分が低いながら、階段をかつぎ上がって、ひどく苦しそうにうつぶせているのは、どこがわたしの苦しさと違っているのか。高貴な人々にまじわっての宮仕えも、身分に限度があるにつけて、ほんとうにたやすいことでないと(かつぐ人を)見る。

 人並みにあつかわれない御輿をかつぐ人の苦しげな姿に、人間共通の苦悩を見る。物語作家ならではの透徹した眼。
 
 (中略・正装した女房たちの詳細な記述)

 ふだんは整っていない容貌がまじっていれば見分けがつくものだが、このようにみんなが精一杯身なりをつくろい、お化粧して、負けないように飾りたてているのは、女絵の美しいのにそっくりで、ただ老けているとか若いとか、髪が衰えているとか生き生きしてるかのちがいだけが、目につく。これでは顔を隠した扇からのぞいている額が、不思議に上品にも下品にも見せてしまうものだ。こういう中にあって優れていると目につく人こそ、とびっきりの美人なのかも。
 (中略)
 殿が若宮を抱かれて一条天皇の前に出られる。天皇が若宮を抱かれたとき、少々泣かれた声がとてもかわいい。弁の宰相の君が、お守り刀を持って進み出られる。母屋の襖障子の西の方、殿の北の方がいらっしゃるところに、若宮をお連れなさる。天皇が御簾の外に出られてから、宰相の君はもどってきて、「あまりにも間近で、恥ずかしかった」と言って、ほんとに赤くなっておられる顔は、上品で美しい。着物の色合いも、この人は人より一段と引き立つように着ていらっしゃる。
 
 宰相の君に式部はとりわけ心ひかれる。

[27]管弦の御遊び、人々加階―同日の夜

 (前略)
 天皇の御前で管弦の遊びがはじまって、興がのってきたときに、若宮の声がかわいらしく聞こえる。右大臣(藤原顕光65歳)が、「万歳楽が若宮の声に和して聞こえるわ」と言って、座を盛り立てる。左衛門の督(藤原公任)などは、「万歳、千秋」と声をそろえて朗詠し、ご主人の大殿(道長)は、「ああ、これまでの行幸をどうして名誉なことと思ったのか、きょうのような光栄があったのに」と、酔い泣きされる。今さら言うことでもないが、殿ご自身も、きょうの行幸をかたじけなく思っていらっしゃるのは、とてもいいことである。
 殿は、あちらの方へ出られる。天皇は御簾の中に入られて、右大臣を御前に召され、右大臣は筆をとって加階の名簿を書かれる。中宮職の役人や、この邸の家司(親王・摂関・大臣家などの家政をつかさどる者)のそれ相当の者は、みな位階があがる。頭の弁(源道方40歳)に命じて、加階の草案は、奏上されるようである。
 親王宣下という若宮の慶祝のために、道長一門の公卿たちが、お礼の拝舞をする。藤原氏であっても、家門の別れた人たちは、その列にも立たれなかった。
 (後略)

 若宮誕生の余慶にあずからない人たちのことも記す作家の眼。

〔28〕御産剃り、職司定め―10月17日

 翌朝、天皇の文使いが、朝霧もまだ晴れないうちにやってこられた。私はつい寝過ごして、それを見なかった。きょうはじめて若宮の御髪を剃られる。行幸の後でということだったので、今まで剃られなかったのである。
 また、その日に、若宮付きの家司や別当や侍者などの職官が決まった。わたしはそのことを前もって聞いていなかったので、残念なことが多い。

 宮中の人事は後宮女房の推挙がかなり有効であったらしい(枕草子)。この文末の「ねたきこと多かり」もそれに関連づけて解すべきか?

 このごろの中宮様の部屋は、お産のため簡素であったが、またもとにもどって、御前のありさまは申し分ない。ここ数年来待ち遠しく思っておられた皇子誕生が思いどおりになって、夜が明けると、殿の北の方もすぐに若宮のところへやってこられて、大切にお世話なさる。その華やかで盛んな様子は、格別の趣である。

[29]中宮の大夫と中宮の権の亮

 日が暮れて、月がとても風情あるころに、中宮の亮(藤原実成)が、だれか女房にあって、特別に昇進(正四位下から従三位)したお礼を中宮様に言ってもらおうというのか、妻戸のあたりも、若宮の産湯を使っていて湯気に濡れて、人音もしなかったので、こちらの渡り廊下の東の端にある宮の内侍の部屋に立ち寄って、「ここにおいでですか」と声をかけられる。さらにこの人はわたしのいる中の間によって、まだ桟のさしていない格子を押し上げて、「いらっしゃいますか」などと言われたが、出ていかないでいると、今度は中宮の大夫(斉信)が、「ここにおいでですか」と言われる。そうまでされて聞かないふりをしていると、もったいつけているようなので、ちょっとした返事をする。お二人とも、なんのくったくもない様子である。宰相(実成)は、「わたしには返事をされないで、大夫(斉信)を特別に待遇なさるなんて、もっともですがよくないよ。こんなとこで、上官と差をつけるなんてことあっていいの?」と、とがめられる。そして、「きょうの尊さは・・・・・・」などと、催馬楽をいい声で謡われる。
 夜が更けるにつれて、月がとても明るい。「格子の下をはずしなさいよ」と、お二人は責められるけど、ひどく品格をさげてこんなところに公卿たちが座り込まれるのも、こんな場所とはいえ、やはりみっともない。若い人なら道理をわきまえないでふざけていても、大目に見てもらえるだろうが、どうしてわたしがそんなことを、不謹慎だと思うので、下格子ははずさないでいる。

 式部はいつも自分の年齢や身分をわきまえて物事を理性的・批判的に見る性質だから、上達部や殿上人とのつきあいも消極的になる。

[30]御五十日の祝い―11月1日

 誕生五十日目の祝いは、11月1日だった。例のごとく、女房たちが着飾って集まった中宮様の御前の様子は、絵に描いた物合せ(歌合・花合・絵合・具合・扇合など、左右にわかれて物を出し合って優劣を競う遊戯 )の場面によく似ていた。
 (中略)
 そのつぎの間の、東の柱下に、右大将(藤原実資、権中納言正二位52歳)が寄りかかって、女房たちの衣装の褄や袖口の色を観察していらっしゃるのは、ほかの人とはかなり違っている。わたしはみんなが酔っ払ってわからないと、まただれかと気づかれないと思って、右大将にちょっとしたことを話しかけてみたところ、当世風に気取っている人よりも、右大将は一段と立派でいらっしゃるようだ。祝杯がまわってきて賀歌を詠まされるのを気にされていたが、このような祝いの席でよく口にされる千年万代の祝い歌ですまされた。

 内省的な式部が、しかも酒の席で話しかける。藤原実資に注ぐ式部の視線は好意的である。実資は、阿諛追従のはびこる宮廷の中で、理非曲直をわきまえた人物である。

 左衛門の督(藤原公任か)が、「失礼だが、このあたりに、若紫はおいでかな」と、几帳の間からのぞかれる。源氏の君に似てそうな人もいないのに、どうして紫の上がいるのよと、聞き流していた。「三位の亮(藤原実成 )、杯を受けろ」などと殿が言われるので、侍従の宰相(藤原実成)は立って、父の内大臣(藤原公季52歳)がそこにいらっしゃるので、敬って前を通らないで、南の階下から殿の前に行ったのを見て、内大臣は(わが子が道長から杯を受ける光栄と父に対する礼儀をわきまえた行動に)感激して酔い泣きをされる。権中納言(藤原隆家)は、隅の間の柱の下に近寄って、兵部のおもと(菊の着せ綿のあの中宮女房)の袖を無理矢理引っ張っているし、殿は殿で聞きづらいふざけたことを言われている。

 
ここで注目すべきは、「源氏物語」がすでに藤原公任のような官人にも知られていたことだ。

〔31〕八千歳の君が御代

 なんだかこわいことになりそうな酔いかたなので、宴が終わるとすぐに、宰相の君と言い合わせて、隠れようとすると、東面の間に、殿のご子息たち(頼通・教通など)や、宰相の中将(道長の甥、藤原兼隆)などが入り込んで、騒がしいので、二人は御帳台のうしろに隠れていると、殿が几帳を取り払って、わたしたち二人の袖をとらえて座らせられた。「祝いの歌を一首ずつ詠め。そうしたら許してやる」と言われる。うるさいし怖いのでこう詠む。
 
 いかにいかがかぞへやるべき八千歳のあまり久しき君が御代をば
 (「いかに」に誕生50日目をかけ、幾千年にもわたる若宮の御代をどうして数えることなどできましょう)

 「ほう、うまく詠んだな」と、殿は二度ばかり声に出して詠われて、すぐにこう詠まれた。

 あしたづのよはひしあらば君が代の千歳の数もかぞへとりてむ
 (「あしたづ」は葦の生えた水辺の鶴。わたしに鶴のように千年の齢があったなら、数えることができるのに)

 あれほど酔っていらっしゃるのに、歌は心にかけている若宮のことなので、とても、その気持ちがわかる。このように殿のようなお方が若宮を大切になさるから、すべての儀式も箔がついて立派に見えるのだろう。千年でも満足できない若宮の繁栄が、わたしのような数にも入らない(取るに足らない)者にも、思いつづけられるのである。
 「宮さま、聞いてますか、上手に詠みましたよ」と、殿は自画自賛して、「まろは父として宮にふさわしいし、宮も娘としてふさわしい。母も幸福だと、笑ってるよ。きっとよい夫を持ったと思ってるだろうな」と、ふざけられるのも、深酔いのせいだろう。冗談でたいしたこともないので、心配ではあるが、目出度いことだ。これを聞いていらっしゃった北の方は、聞きづらいと思われたか、退席なさるようすなので、「見送りしないと、母が恨んではいけないな」と言って、殿は急いで中宮の御帳台の中を通り抜けられる。「(娘とはいえ中宮の御帳台の中を通り抜けるなんて)宮はさぞ無作法だと思われるだろう。だがな、この親がいたから、子も立派になったのだよ」と、独り言を言われるのを、女房たちは笑っている。
 
 女房、中宮、北の方と、無邪気に冗談をいう道長。その人間味あふれた言動に式部も好感を抱いている。

〔32〕御冊子づくり―11月中旬

 中宮様が内裏へお帰りになる日が近くなったけど、女房たちは行事が続いてゆっくりする日もないのに、中宮様は物語の冊子を作られるというので、夜が明けると、わたしはすぐに中宮様と対座して、色とりどりの紙を選んで、物語の原本をそえて、書写を依頼する手紙を書いてくばる。一方では書写したものを綴じたりして過ごす。「どこの子持ちが、こんな冷える季節にこんなことをするものか」と、殿は中宮様に言われたが、上等の薄紙や、筆、墨など、持ってきて、硯まで持ってこられたのを、中宮様がそれをわたしにくださったのを、女房たちは大げさに騒いで、「いつも奥のほうにいるくせに、こんな仕事をするとは」と咎める。でも殿は墨挟、墨、筆など、くださった。
 自分の部屋に、物語の原本を実家から取り寄せて隠しておいたのを、中宮様のところへ行っている間に、殿がこっそりやってきて、探し出されて、内侍の督の殿(道長次女妍子)に与えてしまわれた。なんとか書き直した本は、みな紛失して、(習作が出まわって)気がかりな評判がたったことだろう。

 「物語」とはまさに「源氏物語」のこと。そして「源氏物語」も①原本 ②清書本 ③自分の部屋にあった本 ④なんとか書き直した本 などがこのときに存在していたことを示している。

〔33〕若宮の成長  

 若宮は、すでに「あ」「う」など言われる。天皇が、若宮の参内を心待ちにしていらっしゃるのも、うなずける。

〔34〕里居の物憂い心  

 中宮様の前の庭の池に、水鳥が日に日に多くなっていくのを眺めながら、中宮様が宮中にお帰りになる前に雪が降ってくれれば、この庭の雪景色は、どんなに素敵だろうと思っていて、ちょっと実家に帰っていた、二日ほどして雪が降るなんて。見どころもない古里の木立を見ると、憂鬱で思いが乱れて、夫の死後数年来、ただ茫然と物思いに沈んで暮らし、花や、鳥の、色や声も、春から、秋に、移りかわる空の景色、月の影、霜や、雪を見ても、ああ、もうそんな季節になったのだなあと気づくだけで、いったいわたしはどうなるのだろうと、将来の不安は晴らしようがなかったけど、それでもなんとか取るに足りない物語をつくったり、話をして気心の合う人とは、手紙を書きあったり、ツテをたどって文通などしたものだが、ただこのような物語をいろいろいじり、とりとめない話にじぶんを慰めたりして、だからといってじぶんなど生きてゆく価値のある人間だとは思わないが、どうにか恥ずかしいとか、辛いと思うようなことはまぬがれてきたのに、宮仕えに出てからは、ほんとうにわが身の辛さを思い知らされる。

 
実家に帰った式部の索漠とした心境。式部の宮仕えの憂鬱は底知れぬほど深い。

 
そんな気持ちも晴れようかと、物語(自作の「源氏物語)を読みかえしてみても、以前のようにはおもしろくなく、あきれるほど味気なく、うちとけて親しく語り合った友も、宮仕えにでたわたしをと゜んなに軽蔑しているだろうと、思うと、そんな気をまわすことも恥ずかしくなって、手紙も出せない。奥ゆかしい人は、いいかげんな宮仕えの女では手紙も他人に見せてしまうだろうと、つい疑ってしまうだろうから、そんな人がどうしてわたしの心の中を、深く思ってくれるかと思うと、それも当たり前で、ひどくつまらなく、交際が途絶えるというわけではないが、しぜんと音沙汰がなくなる人も多い。わたしが宮仕えに出ていつも家にいないからと、訪れてくる人も、来にくくなって、すべて、ちょっとしたことにふれても、別世界にいるような気持ちが、実家ではよけいにして、悲しみに気がふさぐ。

 
式部の孤独な悲しみの述懐。彼女にとって華美な宮廷生活は、肌に合わないという程度のものではなく、生まれつきが合わないのである。

 
今のわたしは、宮仕えでなんとなく話をして、少しでも心にかけてくれる人とか、細やかに言葉をかけてくれる人とか、さしあたってしぜんと仲良く話しかけてくる人ぐらいを、ほんの少しばかり懐かしく思うのははかないことだ。
 大納言の君(源扶義の娘廉子)が、毎夜、中宮様の近くにお休みになって、お話をなさったのが恋しく思われるのも、環境になれてしまう心なのだろうか。

 浮き寝せし水の上のみ恋しくて鴨の上毛にさへぞおとらぬ
 (中宮様のとの夜が恋しくて、ひとり実家にいる寂しさは、鴨の上毛の露の冷たさに劣らない)

 返歌、

 うちはらふ友なきころのねざめにはつがひし鴛鴦ぞ夜半に恋しき
 (おしどりが互いに露をはらうような友のいないこのごろのねざめには、いつも一緒にいたあなたのことが恋しくてならない)

 歌の書き方までがとても素敵なのを、すべてによくできた方だと思って見る。
 「中宮様が雪をご覧になって、よりによってあなたが実家に帰ったのを、ひどく残念がっていらっしゃるわよ」と、女房たちも手紙で言ってくる。殿の北の方からの手紙には、「わたしが引きとめた里帰りだから、特に急いで帰り、すぐに帰ってくると言ったのもうそで、いつまでもいるみたいね」と言われてきたので、たとえそれが冗談でおっしゃったにしても、わたしもすぐと言ったことだし、手紙もわざわざくださったのだから、悪いと思って(宮廷に)もどった。

 宮廷生活を嫌だと思いながらも同僚を慕い、宮仕えという境遇に流されてゆく式部。

[35]中宮内裏還啓―11月17日

 中宮様が宮中に入られるのは17日である。午後8時ごろと聞いていたけど、延びて夜も更けてしまった。みんな髪上げして控えている女房は、30人あまり、その顔など、見分けられない。母屋の東の間、東の廂に、内裏の女房も10人あまり、わたしたちとは南の廂の妻戸をへだてて座っていた。
 中宮様の御輿には、宮の宣旨女房がいっしょに乗る。糸毛の車に殿の北の方、それに少輔の乳母が若宮を抱いて乗る。大納言の君、宰相の君は黄金づくりの車に、つぎの車には小少将の君と宮の内侍、そのつぎの車にわたしが馬の中将(中宮女房・左馬頭藤原相尹の娘)と乗ったのを、中将が嫌な人と同乗したと思っているのを見ると、なおさら宮仕えの煩わしさを感じる。殿守の侍従の君、弁の内侍、そのつぎに左衛門の内侍と殿の宣旨の式部までは順序が決まっていて、そのほかは、例によって思い思いに乗り込んだ。車からおりると月がくまなく照らしているので、なんと恥ずかしいことかと、足も地につかなかった。馬の中将が(先輩だから)先に行くので、どこへ行くかもわからずたどたどしくついてゆく格好を、わたしの後姿をどう見たのだろうと思うと、ほんとうに恥ずかしかった。

 式部は内気だが、いつも穴のあくほど人間を観察する。これが人によっては<知的な冷たさ>として嫌われるのである。

 一条院の東の対の部屋に入って横になっていると、小少将の君(源時通の娘)もいらっしゃって、やはり、こういう宮仕えの辛さなどを語り合って、寒さで縮んだ衣裳を隅にやり、厚ぼったい綿入れを重ねてきて、香炉に火を入れて、体が冷えきった同士が、お互いの不恰好を言い合っていると、侍従の宰相(藤原実成)、左の宰相の中将(藤原公信32歳、為光の子)、公信(きんのぶ)の中将など、つぎつぎに寄って来ては声をかけるのも、かえって煩わしい。今夜はいないものと思われて過ごしたいのに、ここにいることをだれかに聞かれたのだろう。「明日の朝早く来ましょう。今夜はがまんできないほど寒くて、体もすくんでるから」などと、(こちらの迷惑がっているのに気づいて)それとなく言われて、こちらの詰所より出てゆかれる。それぞれ家路を急がれるけど、どれほどの女性が待っているのだろう?、と見送る。こんなことを思うのは、じぶんの身の上から言うのではなく、世間一般の男女関係、小少将の君が、とても上品で美しいのに、世の中を辛いと思っていらっしゃるのを見るからです。この方は父(右少弁源時通)が出家(永延元年987年)なさったときから不幸が始まって、その人柄にくらべて運がとても悪いようです。

 還啓の乗車は身分の順で、式部は中位より上だが、儀式で役目があるわけではなく、冊子作りなどで主任格といえる彼女の身分はやや別格である。

〔36〕殿から宮への贈物

 昨夜の殿からの贈物を、中宮様は今朝になってていねいにご覧になる。御櫛箱(髪の道具一式をいれる二段重ねの箱)の道具類は、言葉ではいえないほど立派である。手箱が一対、その一方には白い色紙を綴じた本類、『古今集』『後撰集』『拾遺集』
などで、その歌集一部はそれぞれ5帖に作って、侍従の中納言(藤原行成・三蹟の一人)と延幹(能書の僧)とに、それぞれ冊子1帖に4巻をあてて書かせていらっしゃる。表紙は薄絹、紐も同じ薄絹の唐様の組紐で、箱(懸子かけご)の上段に入れてある。下段には大中臣能宣や清原元輔のような、昔や今の歌人たちの家集を書き写して入れてある。延幹と近澄の君が書かれたものは、立派なもので、これらはもっぱら、身近において使われるものとして、見たこともない見事な装丁になっているのは、現代風で変わっている。

 
底本は上下2冊本。ここで上巻が終わる。

下巻

〔37〕五節の舞姫―11月20日

 五節の舞姫は20日に内裏に入る。中宮様は侍従の宰相に、舞姫の装束などをつかわされる。右の宰相の中将が、舞姫に飾りの組紐を願われたのをつかわされ、そのついでに、箱一対にお香を入れ、飾りの造花に梅の枝をつけて、美しさを競うように贈られる。
 さしせまってから用意される例年よりも、今年はいっそう立派だと評判だったが、当日は東の、御前の向かいにある立蔀に、隙間もなくともした灯の光が、昼間より妙に明るいのに、舞姫たちが静かに入場してくる様子は、よく平気でいられるものと思うけど、他人事とは思えない。ただこのように、殿上人が顔をつき合わせ、脂燭を照らしていないというだけだ。幔幕でさえぎってあるとしても、あらわな様子は、同じように見えるだろうと、じぶんのことのように、胸がつまってしまう。
 
 ※この年の舞姫は4人(侍従宰相藤原実成の娘、右宰相中将藤原兼隆の娘、丹波守高階業遠の娘、尾張守藤原中清の娘)

 業遠の朝臣の舞姫の介添役は、錦の唐衣を着て、闇の夜にも、他人よりも、珍しく見える。衣装をたくさん重ね着して、身動きもしなやかでないように見える。それを殿上人が、心をこめて世話している。こちらの中宮様のところに天皇もいらっしゃって舞姫をご覧になる。殿もそっと、引戸の北側にいらっしゃっているので、気ままにできないので煩わしい。
 藤原中清の舞姫の介添役は、背も同じくらいそろっていて、とても優雅で奥ゆかしい様子は、他の人にも劣らないと評定される。右の宰相の中将(藤原兼隆)の介添役は、やるべきことはされていた。その中の下役の女二人のきちんとした身だしなみが、どこか田舎じみていると、人々は笑っている。最後に、藤宰相(藤原実成)のは、そう思って見るせいか現代的でとてもお洒落である。介添の女房は10人いる。孫廂の御簾をおろして、その下からこぼれ出てる衣装の褄なども、得意げに見せているよりは、いっそう見栄えがして、灯火の光の中で美しく見える。

 五節の舞姫が注目されて、平静を装っている辛い心を思いやり、それが他人事でなく、じぶんも同じ境遇であると胸をつまらせる。
 このように、他人事をじぶんに引きつけ、内省して沈んでゆくのは、式部特有の精神構造である。

〔38〕殿上の淵酔・御前の試み―21日

 寅の日の朝、殿上人が中宮様の前にまいる。例年のことだけど、ここ数ヶ月の里帰りになれたのか、若い女房たちはそれを珍しいと思っている。きょうはまだ青摺り衣(神事の祭服)も見えない。
 その宵、中宮様は東宮の亮(高階業遠)を召されて薫物を賜る。大きめの箱ひとつに、うずたかく入れられた。尾張の守には、殿の北の方がつかわされた。その夜は御前の試みとかで、中宮様も清涼殿へ行かれてご覧になる。若宮も一緒なので、魔除けの米をまき散らし、高らかな声をあげるが、例年とはちがう気がする。
 わたしは気が進まないので、しばらく局で休んで、そのときの様子をみてうかがおうと思っていたところ、小兵衛や小兵部なども囲炉裏のそばにいて、「とても狭いので、よく見えない」などと言ってるときに、殿がいらっしゃって、「どうしてこんなことをしてる、さあ、一緒に行こう」と、急きたてられるので、その気はなかったが御前にまいった。舞姫たちが、どんなに苦しいだろうと見ていると、尾張の守の舞姫が、(緊張のあまり)気分が悪くなって出てゆくのが、まるで夢のように見える。御前の試みが終わって中宮様は退出された。
 この頃の若い人たちは、もっぱら五節所(舞姫の控室)の趣あることを話している。「簾のはしや帽額(一幅の布)さえも、それぞれの部屋ごとに趣がちがっていて、そこに出仕している介添の女たちの髪格好や、立ち居振る舞いさえ、さまざまに趣がある」などと、聞きづらいことを話している。

 華麗な舞姫の内心の苦しさを思わずにいられない式部。

〔39〕童女御覧の儀―22日  

 今年のように舞姫の美しさを競うわけではないふつうの年でも、舞姫に付き添っている童女御覧の日の童女たちの気持ちは、並大抵の緊張ではないのに、今年はどうであろうと、気にかかって早く見たいと思っていると、舞姫たちが付添の女房と並んで出てきたのには、わけもなく胸がつまって、ほんとうに気の毒な気がする。だからといって、特別に好意を寄せる人もいないのだが。われもわれもと、あれほどの人々が自信たっぷりにさしだしたからであろうか、目移りしてしまって、その優劣も、はっきりと見わけられない。現代的な人には、きっと見分けがつくだろう。ただこのような曇りのない日中に、扇も満足に持たせず、大勢の男たちがいる所で、相当な身分才覚のある人とはいえ、人に負けないよう競い合う気持ちも、どんなに気後れがするだろうと、無性に気の毒に思われるのは、まったく時代遅れの融通のきかにいこと。
 丹波の守の童女の、青みがかった緑色の正装が、素敵だと思っていたところ、藤宰相の童女は、赤みがかった黄色を着せて、その下仕えの童女に唐衣に青みがかった緑色を対照させて着せているのは、嫉妬したくなるほど気がきいている。童女の容貌も、丹波の守の一人はそれほど整っているとは見えない。宰相の中将のほうは、童女がみな背丈がすらりとして、髪も素敵だ。その中の馴れすぎた童女の一人を、どうだろう(あまりよくない)と、人々は言っている。みんな濃い紅の衵(あこめ)を着て、表着はさまざまである。正装の上衣は、みな五重がさねを着ているのに、尾張の守は童女に葡萄染めを着せている。それがかえって由緒ありげで、衣装の色合いや、光沢など、とても優れている。下仕えの童女の中にとても顔のいいのが、その扇をとらせようと六位の蔵人が近寄ると、じぶんから扇を投げたのは、しっかりしてるけど、女らしくもないと感じた、もし私たちが、あの人たちのように人前に出ろということだったら、こんな批評めいたことを言っていてもあがってしまってうろうろしてるだけかも。わたしだって以前にはこんなに人前に出るとは思わなかった。けれど、目の前に見ながら浅はかなことは、人の心の常だから、わたしもこれからあつかましくなって、宮仕えに慣れすぎて、男とじかに顔を合わせても平気になるだろうと、じぶんのことが夢のように思われて、あってはならないこと(乱れた異性関係か?)まで想像して、怖くなるので、目の前の盛儀も、例のごとく目に入らなくなってしまう。

 
童女への同情は自己への反省となる。つまり、他人への同情、批評は必ず内省に進み、自己批判をしてしまう。これが式部の精神の特徴である。

〔40〕左京の君

 侍従の宰相の舞姫の控所は、中宮様の御座所から見渡せる近くにある。立蔀の上から、あの評判の簾のはしも見える。人々の声もほのかに聞こえる。「あの弘徽殿の女御(実成の姉、藤原義子)のところに、左京の馬という人が、慣れた様子でまじっていたね」と、宰相の中将(源経房)が、昔の左京を知っていて言われるのを聞いて、「あの夜、侍従の宰相の舞姫の介添役で、東側にいたのが左京ですよ」と、源少将(源済政)も見ていたのを、なんかの縁があって左京のことを聞きたい女房たちが、「おかしなこともあるものだ」と言って、さあ、知らぬふりはしておられない。以前上品ぶっていた宮中に、こんな介添役なんかで出てくるなんて。本人はわからないと思ってやってるつもりだろうけど、暴露してやろうと、中宮様の前にたくさんある扇の中で、蓬莱山が描いてあるのを特別に選んだのは、なにか趣向があるにちがいないが、左京はそれを理解しただろうか。箱のふたに扇をひろげて、日陰の鬘をまるめてのせ、それに反らした櫛や、白粉など、念入りに端々を結いつけた。「少し盛りを過ぎた人だから、これでは櫛の反りようがたりないな」と、男の方が言われるので、現代風のみっともないほど反らして、薫香も丸めて、不恰好にあとさきを切り、白い紙二枚を重ねて立文(正式の書状)にした。手紙は大輔(たいふ)のおもとにつぎのように書かせた。

 おほかりし豊の宮人さしわきてしるき日かげをあはれとぞ見し
 (大勢いた宮廷人の中で、とりわけ目立った日陰の鬘のあなたを、とても感慨深く見受けた)

 中宮様は、「同じことならもっと趣向を凝らして、扇ももっとたくさんあげたら」と言われるけど、「あまり大げさなのも、趣旨にあわないでしょう。特別に賜れるなら、このように内々にして意味ありげになさるものではありません。これはほんの私事なのですから」と言われて、顔の知られていない者を使いにやって、「これは中納言の君(弘徽殿の女御付の女房)からあずかった女御(義子)様からの手紙です。左京の君に」と声高に言って置いてきた。使いの者が引きとめられたらいけないなと思っていると、使いは走って帰ってきた。先方では女の声で、「(付添で来てるなんてだれも知らないはずなのに)どこから入ってきたの」と下仕えにたずねているようだったが、女御様の手紙と、疑いなく信じてることだろう。

 もと内裏の女房が舞姫の付添でやっきているのを見ていたずらをする。虚栄や嫉妬や競争に明け暮れる宮廷女房社会の一端。

[41]五節も過ぎて

 なにも耳をとどめることもなかったこの数日間だが、五節も終わってしまったという宮中の様子は、急に寂しい気がするけど、26日の夜にあった臨時祭の雅楽の練習は、ほんとうにおもしろかった。若々しい殿上人などは、どんなに名残惜しい気持ちだろう。
 高松の上(道長の第二夫人、源高明の娘明子)の若い子息たち(頼宗16歳、頼信15歳、能信)さえ、中宮様が宮中に入られた夜からは、女房の部屋に入ることを許されて、すぐ近くを通って歩かれるので、ひどくきまりが悪い思いをする。わたしは盛りが過ぎたのを口実にして隠れている。若い子息たちは五節が恋しいなどとは思っておられず、やすらい(中宮付の童女の名)や、小兵衛(中宮の若女房)などの、裳の裾や、汗衫(かざみ)にまつわりつかれて、まるで小鳥のようにきゃあきゃあとふざけていらっしゃる。

 五節が過ぎ去った空虚感と高松の子息たちのはしゃぎの対比。

[42]臨時祭―11月28日

 賀茂神社の臨時祭りの神に奉献する使者は、殿のご子息の権の中将(道長の五男教通)である。当日は宮中の物忌なので、殿は、宿直(とのい)なさった。公卿たちも舞人をつとめる人たちも、宮中にこもって、そのため一晩中、女房の部屋があるこの細殿のあたりは、ひどくざわついたけはいだった。
 祭りの日の早朝、内大臣(公季)の随身が、こちらの殿の随身に贈り物を渡して帰っていったが、それは先日の左京に扇を贈ったときの箱のふたで、それに白銀の冊子箱が置いてある。その箱の中に鏡を入れて、沈香木製の櫛、白銀製の笄など、使いの権の中将が髪を整えるようにしてある。箱のふたに葦手書き(仮名を図案化した書風)で浮き出ているのは、あの「日陰」の歌の返事らしい。文字がふたつ抜けていて、なんだか変だなと思えたのは、内大臣(公季)がてっきり中宮様からの贈物だと思われて、このようにおおげさにされたのだと聞いた。ちょっとしたいたずらが、気の毒なことに、こんなにおおげさになって。
 殿の北の方も、参内されて使者の儀式(晴れ姿)をご覧になる。教通様が藤の造花※を冠に挿し、とても立派で大人びていらっしゃるのを、内蔵の命婦(教通の乳母)は、舞人たちには目もやらないで、成人した教通様をつくづくと見ては感涙にむせんでいた。
 宮中の物忌なので、賀茂の社から、使いの一行が内裏に午前2時ごろに帰られると、還立の神楽などもほんの形ばかり行われた。舞の名手の兼時が、去年までは舞人として素晴らしかったが、今年は老けて衰えた動作は、わたしには関係のない人だけど、あわれで、じぶんの身になぞらえることが多かった。

 ※舞人は桜の造花を挿す。

 この文章も二項対立(教通の晴れ姿と舞の名手の老残)による内省の念。

[43]年末独詠―12月29日の夜

 師走の29日に実家から宮中に参上する。はじめてわたしが宮中へ参上したのも12月29日の夜だった。あの時はまるで夢の中を歩いているようだったなあと思いだしてみると、今ではすっかり慣れてしまっているのも、いやな身の上だと思われる。
 夜はたいそう更けた。中宮様は物忌にこもっていらっしゃるので、御前にも行かず、心細い気持ちで横になっていると、一緒にいる若い女房たちが、「宮中はやっぱり違うわね。実家にいたら、もう寝ているはずなのに、寝つかれないほど(女房の局をたずねる男たちの)沓音のしょっちょうすること」と、ドキドキして言っているのを聞いて、

 年くれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな
 (今年も暮れて、わたしも老いてゆく。風の音に心が荒れて寂しい)

 とひとり言をいう。

 老いゆく身の荒涼たる絶望。

[44]晦日の夜の引きはぎ

 大晦日の夜、鬼やらい(悪鬼払い)の行事は早くすんでしまったので、お歯黒をつけたりなど、ちょっとしたお化粧などしようとして、くつろいでいると、弁内侍(藤原義子)がやってきて、話をして、休まれた。内匠の蔵人(中宮女房、女蔵人)は長押の下座に座って、あてき(童女の名)が縫う仕立物の、折り込み方を教えたりなど、せっせとしていたときに、中宮様のところではげしい悲鳴がする。内侍を起こしたが、すぐには起きない。だれかが泣き騒いでいるのが聞こえるので、とても恐く、どうすることもできない。火事かと思ったが、そうではない。
内匠の君、さあさあ」と、先に押しやり、「ともかく、中宮様は下の部屋にいらっしゃいます。まずそこへ行ってみましょう」と、弁の内侍を荒々しくつついて起こして、三人がふるえながら、足も地につかないほどうろたえて行ってみると、裸の人が二人いる。靱負(ゆげい)と小兵部だった。引きはぎに着物を奪われたのだとわかると、ますます気味が悪い。御厨子所(みずしどころ食膳を調達する所)の人たちもみないなく、中宮付の侍も、滝口の侍(警護の武士)も、鬼やらいがすむとすぐに、みんな退出していた。手をたたいて叫んでも、返事をする人もいない。おものやどり(御膳を納めておく所)の老女を呼んで、「殿上人の詰所に、兵部の丞(式部の弟、藤原惟規のぶのり)という蔵人がいる、呼んできて、呼んできて」と恥も忘れてじかに言ったので、老女はすぐに行ったが、やはり退出していた。こんな情けないことがあるものか。
 式部の丞資業(すけなり)がやって来て、あちらこちらの灯台の油を、ただ一人で注いでまわる。女房たち、ただ呆然として、顔を見合わせて座り込んでいる。天皇から中宮様にお見舞いの使いがあった。ほんとうに恐ろしいことだった。中宮様は納殿(財宝・衣服・調度を納めた蔵)にある衣裳を出させて、この二人に賜った。元日用の晴着は盗っていかなかったので、二人ともなにもなかったようにしているけれど、あの裸姿は忘れられず、恐ろしいけど、今になってみればおかしくもあるが口に出してはいえない。

 この引きはぎは、盗賊ではなく、年を越す下人の物ほしさだろう。

[45]新年御戴餅の儀-寛弘6年正月

 正月1日、元旦なので不吉な言葉は避けるべきだが昨夜のことをつい口にしてしまう。元旦は凶の忌日にあたっていたので、若宮の御戴餅(小児の頭上に餅をあてる)の儀式はとりやめになった。それで三日の日に若宮は清涼殿にのぼられる。今年の若宮の陪膳役は大納言の君(廉子)。装束は、元日は紅の袿、葡萄染めの表着、唐衣は赤色で地摺りの裳。二日は、紅梅の織物の表着、打衣の掻練は濃い紅、青色の唐衣、色摺りの裳。三日は、綸子(りんず、滑らかで光沢がある絹織物)の桜がさねの表着、唐衣は蘇芳の織物。掻練は濃い紅を着る日は紅の袿は中に、紅の掻練を着る日は濃い紅の袿を中に着るなど、いつもの決まりどおりである。女房たちは萌黄がさね、蘇芳がさね、山吹がさねの濃いのや薄いの、紅梅がさね、薄色がさねなど、ふだんの色目を一度に六つほど、これに表着を重ね合わせて、とても体裁よく着こなして控えている。  
 宰相の君(豊子)が、若宮のお守刀を持って、殿が若宮を抱いておられるのに続いて、清涼殿に行かれる。紅の袿の三重縫い五重縫い、三重縫い五重縫いと交互にまぜて、同じ紅色のつやを出した七重がさねの打衣に、さらに一重を縫い重ね、重ねまぜて八重にして、その上に同じ紅色の固紋の五重の表着をつけ、袿には葡萄染めの浮紋で堅木の葉の紋様を織ってあるが、縫い方まで気がきいている。それに緑を三重に重ねた裳をつけ、赤色の唐衣は菱の紋様を織って、意匠も唐風にしゃれてる。とても美しく髪などもいつもより念入りにつくろってあって、容姿、態度も、上品で美しい。背丈もちょうどよく、ふっくらとした人で、顔はとても可愛く、色艶も美しい。  
 大納言の君(廉子)は、とても小柄で、小さい部類にはいる人で、色白で美しく、まあるく太っているが、見た目にはすらっとして、髪は、背丈に三寸ほどあまっている裾の様子、髪の生えぐあいなど、すべて個性的で、神経のゆきとどいた美しさだ。顔もとても可愛らしく、身ぶりなども、可憐でやさしい。  
 宣旨の君(中納言源伊陟これちかの娘)は、小柄な人で、とてもほっそりしていて、髪の毛筋は細かいところまできれいで、垂れ下がっている髪の末が袿の裾から一尺ほど余っている。こちらが恥ずかしくなるほど、際限なく気品がある。物陰から歩いてこられた姿も気品に満ちていて、自然と気にかけてしまう。上品な人はこのような人だろうと、気立てのよさが、ちょっとしたことを言われても、わかる。

 宰相の君、大納言の君、宣旨の君の容姿や人柄への賞賛は、続いて他の女房たちの人物批評に移ってゆく。

[46]人々の容姿と性格

 このついでに、人々の容姿のことを話したら、遠慮がないということになるだろうか。それも現在の人のことを。顔をあわせる人のことは、差し障りがあるし、どうかと思われるような、少しでも欠点のある人のことは、言わないことに。
 宰相の君は、(豊子様でなく)北野の三位(藤原遠度)の娘のほう、彼女はふっくらして、とても容姿が整っていて、才気ある理知的な容貌で、ちょっと見たより、見れば見るほど、格段によくて、かわいらしくて、口元に、気品がただよい、こぼれるような愛嬌もそなわってる。立居振舞いもとても美しく、華やかにみえる。気立てもとてもおだやかで、可愛らしく素直で、こっちが気おくれしてしまうような気品もそなわっている。
 小少将の君(源時通の娘)は、なんとなく上品に優雅で、二月ごろの初々しいしだれ柳のよう。容姿はとても美しく、物腰は奥ゆかしく、性質なども、じぶんでは判断できないように内気で、ひどく世間を恥ずかしがり、見てはいられないほど子どもっぽい。意地の悪い人で、悪しざまにあつかったり事実とはちがうことを言う人があれば、それを気に病んで、死んでしまいそうなほど、弱々しくどうしようもないところが、頼りなくて気がかりです。
 宮の内侍(橘良芸子)は、とても清楚な人です。背丈もちょうどよいほどで、座っているとき、姿格好、とても堂々としていて、現代的な容姿で、細かに、とりたてて素敵だとは見えないが、とても清楚で、すらりとしていて、中高な顔立ちで、黒髪に映えた顔の色合いなど、ほかの人より優れている。頭髪の格好、髪の生えぐあい、額のあたりなど、まあなんときれいなと思えて、華やかで愛嬌がある。ごく自然にありのままにふるまって、気立てなどおだやかで、つゆほどもやましいところがなく、すべてあんなふうでありたいと、人の手本にしてもいい人です。風流がったり気取ったりはなさらない。

 宮の弁侍までは式部より上位の女房。人物批評にも敬意と憧憬の念がうかがわれる。

 式部のおもと(橘忠範の妻)は、宮の内侍の妹です。ふっくらしすぎるほど太っている人で、色はとても白く艶やかで、顔は整っていて趣がある。髪も非常に美しく、長くはないので、付け髪などして、宮仕えしている。出仕の当時はその太った容姿が、とても美しかった。目もと、額のあたりなど、ほんとうにきれいで、微笑んだところなど、愛嬌もいっぱい。  

 当時、肥満はかならずしも美人のマイナス条件ではなかったらしい。適度のふっくらとした愛らしさはむしろ好まれた。

 若い人たちの中でも容貌が美しいのは、小大輔(こだいふ)、源式部(げんしきぶ)など。大輔は小柄な人で、容姿はとても現代的、髪は美しく、とても豊かで、丈に一尺以上も余っていたのに、今では抜け落ちて細くなっている。顔もひきしまって、なんて素敵な人と思われる。容貌はなおすところなし。源式部は、背丈もちょうどよく、すらりとしていて、顔も整っていて、見れば見るほど素敵で、可愛らしい風情、清々しくさっぱりしていて、 宮仕えの女房というよりどこかの娘のよう。  
 小兵衛、少弐なども、とてもきれい。それらの美しい女房たちは、殿上人が見すごすなんて、少ない。だれも、まかりまちがうと知れわたってしまうが、見られないところでも用心してるので、知られずにすんでいる。  宮本の侍従はすみずみまで整った美しい人。とても小さくてほっそりしていて、まだ童女のままにしておきたいようだったが、じぶんから老け込んで、尼になって宮仕えをやめてしまった。髪が、袿の丈に少し余って、その末をとても華やかに切りそろえて参上したのが、宮仕えの最後のとき。顔もとても美しかった。  
 五節の弁という人がいる。平中納言(平惟仲)が、養女にして大事にしていたと聞いている人です。絵に描いたような顔して、額が広い人で、目じりがとても長く、顔もとくに個性があるわけでなく、色白で、手つきや腕の様子はとても風情があって、髪は、わたしが見た春は、背丈に一尺ばかり余って、豊かにたくさんあったが、(父惟仲の横死が原因で)あきれるほど抜け落ちてしまって、裾のほうもさすがに誉められたものではなく、長さは丈に少し余っているよう。  
 小馬という人、髪がとても長かった。昔は美しい若女房だったが、今は琴柱に膠でつけたように実家に引っ込んでいるよう。  
 このように言ってきたけど、さて気立てはとなるとこれはと思う人はいない。それも、それぞれに個性があって、ものすごく悪いのもいない。また、優れて気品があって、思慮ぶかく、才覚や風情も、信頼も、将来性も、すべて持っているような人もいない。みなそれぞれで、どの人をとるべきかと迷う人ばかり多い。こんなこと言ってほんとうにごめんなさい。

 五節の弁の宮仕えは式部よりも後。五節の弁の髪が抜け落ちたのは、父平惟仲の大宰府での横死による悲嘆と傷心が原因。とすると彼女が出仕したのは父が死んだ寛弘2年3月以前であり、式部との出会いもこの春と推定される。

〔47〕斎院と中宮御所  

 賀茂の斎院に、中将の君(斎院女房、斎院長官源為理の娘。歌人で式部の弟惟規の愛人)という人が仕えていると聞いている。つてがあって、この人が他人に書いた手紙を、こっそりと人が見せてくれた。それは華やかで、じぶんだけが世の中でものの情趣を知っていて、心が深く、比類なく、すべて世間の人は、深い心も分別もないと思っているらしく、手紙を見たら、無性にむしゃくしゃして、憤りをおぼえ、下賎な人がいうように、ほんとうに憎らしく思えた。たとえ手紙の文面であっても、「和歌などの趣のあるものは、わが斎院様(村上天皇の第十皇女選子内親王46歳)よりほかに、だれが見わける人がいるだろうか。世の中に情趣豊かな人が出現するとすれば、わが斎院様しか見わけることができないでしょう」などと書いてある。
 なるほどそれももっともだけど、じぶんの方のことをそれほど誇って言うなら、斎院方から作られた歌の、すぐれてよいと思えるものはない。ただ趣のある、風情がある生活をされている所のようだ。仕えている女房を比べて競争したなら、中宮様のまわりの人たちに、必ずしも斎院方の女房のほうが勝ってはいなく、斎院方をいつも内部まで見ている人はいないし、美しい夕月夜・風情ある有明・花見・ほととぎすの名所として行ってみると、斎院様はとても趣味豊かな心があって、御所は浮世離れがして、神々しい。また世俗の雑事にとらわれることもない。こちらのように中宮様が清涼殿にあがられるとか、あるいは、殿がいらっしゃるとか、宿直なさるとか、騒々しい事もないし、ふるまいが、しぜんと風雅を好むようになっているので、優雅のかぎりをつくしたとしても、軽口をたたくことなどできようか。わたしのような埋もれ木をさらに埋めたような引っ込み思案な性格でも、あの斎院方に仕えたら、そこで知らない男に出会って、ものを言っても、軽薄な女だという評判を隠しきれないと、心をゆったりとさせてしぜんと優雅なふるまいをするだろう。まして若い女房で、容貌も、年齢も、引け目を感じることのない人が、それぞれ思う存分色っぽくして、歌を詠むのもじぶんの趣向のままにしたら、斎院方の人たちに劣るものでもない。
 けれど、こちら中宮方では宮中で明け暮れ顔をあわせて、競い争う女御、后もいなく、そちらのお方、あちらの細殿のお方というように、並べて言う相手もなく、男も女も、争うこともなくのんびりしていて、中宮様の気風として色っぽいことを、ひどく軽薄なことだと思っていらっしゃるので、少しは人並みでありたい女房は、並大抵のことでは男との応対には出ない。気やすく、恥ずかしがらないで、ああだこうだという人の評判を気にしない女房は、中宮様の意向とはちがって色っぽいことを言わないわけでもない。ただそんな女房は気がおけないからと、男たちが立ち寄って話をするので、「中宮方の女房たちは引っ込み思案だ」、あるいは「奥ゆかしさがない」などと批評するだろう。上級・中級の女房は、あまりに引っ込みすぎてお高くとまってばかりいる。それでは、中宮様のために、なんの引き立て役にもならず、かえって見苦しい。

 ※中宮彰子の唯一の競争相手は皇后定子だったが、定子は彰子が中宮になった長保2年(1000)の12月に崩じている。  

 こういうと上臈・中臈(上級・中級)の女房の欠点を、わたしがよく知っているようだが、人はみな人それぞれで、ひどく劣ったり勝ったりするものでもない。そのことが優れていれば、あのことが劣る、といったようなものだ。けれど、若い人たちでさえなるべく重々しくふるまおうと真面目にしているのに、上級・中級の人たちが見苦しくふざけたりするのも、ひどくみっともない。とにかく中宮方の雰囲気を、このような無風流ではなくしたいと思う。

 「人はみなとりどりにて、こよなう劣りまさることもはべらず」式部の確かな人間観察。  

 とはいっても、中宮様のお心はなにひとつ不足なところがなく、聡明で奥ゆかしくいらっしゃるのに、あまりにも内気な性格だから、(女房たちに)じぶんからは言いださないでおこう、言いだしても、気づかいなく後悔しないですむ人は、めったにいないと思っていらっしゃる。たしかに、何かのときに、中途半端なことをしては、できの悪いより劣るというもの。とりわけ思慮深くない人で、中宮御所で得意顔をしてる者が、なまじっか筋の通らないことを、なにかの時に言ったのを、中宮様がまだとても若い時のことで、ひどく聞き苦しいと心から思われたので、ただ目立った欠点がなくて過ごすのを、無難なことだと思っておられる考えに、子どもっぽい良家の子女たちが、みなとてもよく中宮様の考えにあわせようと仕えているうちに、こんな(中宮方の)気風(地味で控え目)になれてしまったのだとわたしは思っている。  
 今では、(中宮様は)だんだん大人らしくなるにつれて、世の中のほんとうの姿や、人の心の良し悪しも、出すぎたのも控えめなのも、すべてわかって、この中宮御所のことを、殿上人もだれもが見なれて、特におもしろいこともないと思ったり言ったりしているらしいと、すべて承知していらっしゃる。といっても、奥ゆかしさばかりでは押し通すことができず、 一歩踏みはずすと、ひどく軽薄なことも出てくるものの、無風流で引っ込みがちなのは、(中宮様も)もっと積極的になってほしいと思ったり言われたりするが、(中宮方の)その控えめな習慣はなおりにくく、また、現代風の若い貴公子たちときたら、この気風に順応して、中宮御所にいる間は実直にふるまう人ばかり。斎院などのような所で、月を見、花を愛でたりする、一途な風流なことは、じぶんから求め、想像もするだろう。(a(中宮方は)朝夕出入りして、奥ゆかしくないところで、日常の言葉もなにかに関係づけて聞いたり、言ったり、あるいは、(男たちから)興味あることを話しかけられて、返事を恥ずかしくなくできる女房は、ほんとうに少なくなったと、殿上人たちは批評しているようだ。でもこれはわたしが直接見たわけではないから、よくわからない。  

 斎院方は風流で奥ゆかしく、中宮方は地味で趣がないという殿上人たちの世評。「みづからえ見はべらぬことなれば、え知らずかし」の「え知らずかし」は、中宮方への悪評に対する強い反発がある。

 人が立ち寄って(話しかけてきたとき)、ちょっとした返事をしようとして、人の感情を害するようなことをしでかすのは困りもの。上手に応対して当然である。ところがこの当然のことができない、それだけ気立てのいい人はめったにいないものだ。どうして、とりすまして引っ込んでいるのが賢いといえるのか。また、だらしなく出しゃばるのがよいことだろうか。適当に、そのときどきの状態で、配慮することがとても難しいのだろう。  まず第一に、中宮の大夫がこられて、中宮様に啓上なさるような時に、ひどく弱々しく子どもっぽい上臈たちは、応対に出るようなことはめったにない。また、応対に出たとしてもなにも、はきはき言えそうもない。言葉が足らないわけでもなく、理解力がないからでもなく、気がひけて、恥ずかしいと思って、間違ったことを言おうものなら、いやなことだ、一切応対に出ないようにしようと、ちょっとした姿も見られないようにする。上臈以外の女房たちは、それほどでもない。こういう男たちと対面しなければならない宮仕えに入ってしまうと、とても高貴な方でも、世間のしきたりに従うものだが、中宮付の女房たちは(宮仕え以前の)姫君の時のままの振舞いで、みないらっしゃる。下級の女房が応対に出るのを、大納言(藤原斉信)は快く思っていらっしゃらないので、しかるべき上臈の人たち、実家に帰ったり、局にいても、やむをえず暇がない時には、応対にでる者がいなくて、大納言がそのまま帰られるときもあるようだ。そのほかの公卿たちは、中宮様の御所に来られて、なにか啓上なさるときは、それぞれ、贔屓の女房と、いつのまにかそれぞれ昵懇にしていて、その女房がいないときは、つまらなそうに、帰ってゆくが、そんな人たちがなにか機会があると、この中宮方のことを、「引っ込み思案だ」などと言うのも、無理もないこと。
 斉院あたりの人も、こんなとこを軽蔑するのだろう。だからといって、じぶんの方が、優れていて、他の人はものを見る目がない、風雅もわからないだろうと、侮るのも、筋が通らない。すべて非難するのはたやかく、じぶんに気を配るのは難しいはずのに、そう思わないで、じぶんは賢いと、他人を無視したり、世間を非難しているところに、浅はかな心がはっきりと見える。  まったく見せてあげたいような斎院の中将の手紙の書きぶりだった。ある人が隠しておいたのをそっと取り出し、こっそり見せてくれて、すぐに返してしまったので、(手紙を見せられないのが)残念なこと。

 ※式部は藤原実資に信用され、しばしば取次を頼まれている。

 斎院の中将の手紙に対する批評には、激しい憤りがあるが、斎院と中宮のそれぞれの環境と特質を分析した上で反論を進めているので説得力がある。相手の非だけを責めるのではなく、中宮方の短所も素直に自己批判しているところに、つねに自己凝視をする式部の特性がある。

〔48〕和泉式部・赤染衛門・清少納言批評  

 和泉式部という人は、興味がわく手紙をやりとりした。だけど、和泉は倫理的に感心しないところがある。気軽に手紙を走り書きしたときに、そのほうの文章の才能のある人で、ちょっとした言葉にも、色艶が見えるようだ。和歌は、とても上手い。でも古歌の知識、歌の理論などは、ほんとうの歌人というわけではなく、口からでるにまかせて詠んだ歌などに、かならず面白い一点の、目にとまるものが詠んである。それほどの歌人であっても、他人が詠んだ歌を、非難したり批評したりする場合、歌というものをよくわかっていないようだ。口からしぜんと歌が出てくるような、そんな感じの歌人。こっちが恥ずかしくなるような素晴らしい歌人とは思えない。

 ※和泉式部 越前守大江政致(まさむね)の娘。情熱的な歌人で三十六歌仙の一人。中宮彰子への出仕は寛弘6年の初夏ごろ。

 丹波の守(大江匡衡まさひら)の北の方を、中宮様や、殿などのところでは、匡衡衛門(赤染衛門)と言っている。歌は格別優れているわけではないが、じつに風格があり、歌人だからといって、すべてのことに歌を詠むことはしないが、世に知られている歌はすべて、ちょっとしたときの歌も、それこそこっちが恥ずかしくなるような詠みっぷりである。(それに対し)ややもすると、上の句と下の句がつながらない「腰折れ歌」を詠んで、なんとも言いようがない気取ったことをしても、じぶんこそ優れた歌人だと得意がってる人は、憎らしくも気の毒にも思われる。

 ※赤染衛門 道長家女房。大江匡衡の妻。歌人で三十六歌仙の一人。『栄花物語』正編の作者と伝えられる。

 清少納言こそ、得意顔に偉そうにしていた人。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしているけど、よく見れば、まだいたらないところが多い。このように、人より特別に勝れようと意識的にふるまう人は、かならず見劣りし、将来は悪くなるばかりだし、風流を気取る人は、ひどく寂しくつまらない時でも、しみじみ感動してるようにふるまい、興あることを見逃さないようにしているうちに、しぜんと見当はずれの浮薄な態度にもなるだろう。そういう軽薄になってしまった人の最後が、どうしてよいことがあろうか。

 ※清少納言 清原元輔の娘。一条天皇皇后定子に仕えた才媛で、『枕草子』の作者。晩年は不幸落魄の身。

 すでに『枕草子』を著して才女として名高い清少納言を痛烈に批判している。

〔49〕わが身をかえりみて  

 このように、あれこれにつけて、なにひとつ、思い出となるようなこともなくて、過ごしてきたじぶんが、(夫を亡くして)将来の希望もないのは、慰めるすべもないが、すさんだ心で自暴自棄になるのだけはやめよう。そうした思いが依然として消えないのか、物思いがます秋の夜、縁近くに出て空を眺めていると、ますます、月は昔は(盛りのじぶんを)ほめてくれたのかと、目の前の光景を誘いおこすように思われる。世間の人が忌むという鳥も、きっと飛んでくるだろうと、思われて、すこし奥に引っ込んでも、やはり心の中では際限もなく物思いを続けている。  
 風の涼しい夕暮れに、聞くにたえない琴をひとり鳴らしては、「悩みを重ねた(女がわびしく住んでいる家)」かと聞き知る人もあろうかと、忌まわしく思われるのは、愚かで哀れだ。  

 ※わび人の住むべき宿と見るなべに嘆きくははる琴の音ぞする(古今集)  

 とはいっても、見苦しく黒ずんで煤けた部屋に、筝の琴(十三絃の琴)、和琴(六絃の琴)が、調律したまま、気をつけて、「雨の降る日は、琴柱を倒せ」などとも言わないのでそのままに、塵も積もって、寄せて立てかけてあった厨子と柱との間に首をさし入れたまま、琵琶もその左右に立てかけてある。大きな厨子一対に、隙間もなく積んであるのは、一つには古歌や、物語の本が言いようもなく虫の巣となってしまったもので、気味悪いほどに虫が逃げだすので、開けて見る人もいない。もう一方には、漢籍類、大切に所蔵していた夫も亡くなってしまった後は、手を触れる人も特にいない。漢籍類を、どうしようもなく寂しくてしょうがないときに、一冊二冊引き出して見てるのを、(式部に仕えている)女房たちが集まって、「ご主人はいつもこんなふうだから、幸せが少ないのよ。どういう女が漢籍を読むの。昔は女が経を読むのさえ止められた」と、陰口を言うのを聞いても、縁起をかついだ人が、将来長寿だということは、見たこともないと、言ってやりたいけど、それでは思いやりがないし、侍女たちの言うことももっともなので。
 すべてのことは、人によってさまざま。得意そうに派手で、、気持ちよさそうに見える人もいる。すべてにあてもなく寂しい人が、気のまぎれることがないままに、思い出の手紙を探し出して読んだり、仏への勤めに身を入れて、お経を絶えず唱え、数珠音高くもんだりするなど、あまり好感が持てないやり方だと思うので、じぶんの思うままにしてよいことまで、わたしの侍女たちの目を憚って、心の中におさめている。まして宮仕えで人中にまじってはろ、言いたいこともあるけど、言わないほうがいいと思えて、わかってくれそうもない人には、言っても無駄だし、なにかと人を非難し、じぶんこそはと思っている人の前では、面倒なので、口をきくのもおっくう。特になにもかもすべてに通じている人はめったにいない。ただ、じぶんがこうと決めこんだこと(主義主張)で、他人を無視しているようなものだ。
 
そんな人は、ほんとうの心とは裏腹のわたしの表情を恥ずかしがっているのだと見るけれど、(そんなことはなく)面と向かって人に真向かいで座っていたこともあるが、あんなようなものだと非難されないようにしようと、恥ずかしいわけではないけど、(弁解するのが)面倒だと思って、ぼんやり呆けてしまった人間のようにみせかけていると、「こんな方だとは思わなかった。ひどくあでやかに取り澄ましていて、気難しげに、よそよそしい感じで、物語を好み、風流ぶって、なにかというと歌を詠んだりして、人を人とも思わないで、憎らしいほど人を見くだす人なんだと、だれもが言ったり想像したりして反感を持っていたのに、会ってみると、不思議なほどおっとりしていらっしゃって、まるで別人かと思われるほど」と、みなが言うので、きまりが悪く、人からこうまでおっとり者と見くだされたのだなあと思うけれど、ただこれがじぶんの本心だというように、ふるまっているわたしの様子を、中宮様も、「ほんとうに打ち解けてはつきあえないと思っていたけど、ほかの人よりずっと仲良くなったわね」と、言われる時もある。個性的で、優雅にふるまい、中宮様に尊重されている上流の女房の方たちにも、反感を持たれたりしないようにしなければと思う。

 紫式部は、宮廷生活の中で、じぶんを隠すことに懸命だ。なぜなら、内面にはびこる魔を、作品のほかの世界で放てば、人間の顔をした怪物みたいに思われてしまうからだ。これは古典近代期の芸術家たちの<内心の仮装>と似たものといっていい。


〔50〕人の心さまざま  

 見苦しくないよう、すべて女は穏やかに、心の持ち方もゆったりとして、落ち着いていることを基本としてこそ、品位も風情も、魅力的で親しみがもてる。あるいは、色っぽく移り気であっても、生来の人柄にくせがなく、周囲の人にもつきあいにくい様子をしないようになってしまえば、憎いことはない。じぶんこそはちがうと、人の関心を引くことに慣れて、態度が仰々しくなった人は、立ち居振る舞いだって、じぶんで気を配っているときでも、その人には目がとまる。目がとまれば、かならずものを言う言葉の中にも、来て座る動作にも、立ってゆく後姿にも、かならずそうした癖はみつけられるものだ。言うことが少しちぐはぐな人と、他人のことをすぐけなしてしまう人とは、なおさら注意深く聞いたり見たりされるようになる。悪い癖のない人であれば、なんとかして、ちょっとした批判の言葉も聞かなかったことにして、形だけでも好意をかけてあげたくなる。  
 人が故意に、いやなことをした時は、悪いことを誤ってやった時でも、これを笑っても、遠慮はいらないと思う。とても心の美しい人は、他人がじぶんを憎んでも、じぶんはなおさら、その人を思って世話をするかもしれないけど、普通の人はとてもそんなことまではできない。慈悲深い仏様だって、三宝(仏・法・僧)をそしる罪は軽いなんて説かれているだろうか。まして、これほど濁りきった世俗の人は、こちらにつらくあたる人にはつらくしてもよい。それを、じぶんのほうが上だと言わんばかりに、ひどい言葉を言って、面と向かって険悪な表情でにらみ合ったりするのと、そうではなくて心の中を見せず、表面は穏やかにしているのとの違いによって、心の良し悪しはわかるものだ。  

 紫式部にとって人間の差は、本心を露にするか、包み隠して寛大にふるまうかの違いにある。

〔51〕日本紀の御局・楽府御進講  

 左衛門の内侍(内裏女房、橘隆子)という人がいる。妙にわけもなく不快に思っていたのを、知らないでいたところ、いやな陰口がたくさん聞こえてきた。
 一条天皇が、『源氏物語』を女房に読ませて聞かれていたときに、「この作者は、日本紀を読んでるにちがいない。まことに学識がある」と、言われたのを、内侍が当て推量して、「とっても学問があるんだってさ」と、殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」とあだ名をつけたが、まったく笑止千万なことだ。じぶんの実家の侍女の前でさえ、隠しているのに、宮中のようなところで学識をひけらかしたりするものか。
 わたしの弟の式部の丞(藤原惟規、引きはぎ事件では兵部の丞)という人が、子供のころに漢籍を読んでいた時、そばで聞いて覚えていて、弟が時間をかけて理解したところや、忘れたりしたところでも、わたしは不思議なほど早く理解したので、学問に熱心だった父は、「悔しい! この娘が男子でなかったのは不運だ!」と、いつも嘆いておられた。
 それなのに、「男だって学問をひけらかす人は、どういものだろうか。栄達はしないだろうよ」と、だんだん人が言うのを聞いてからは、「一」という漢字さえ書いてみせないので、とても無学で、あきれるほどだ。かつて読んだ漢籍などというものは、目にもとめなくなっていたのに、ますます、こんなあだ名を聞いたので、これでは人も伝え聞いて憎むことだろうと、恥ずかしさに、御屏風の上に書いてある字さえ読まないふりをしていたのに、中宮様の、御前で、『白氏文集』のところどころを読ませられたりして、その方面のことを知りたそうにしていらっしゃると思われたたので、極力人目を避けて、女房の伺候していないあい間あい間に、一昨年の夏ごろから、「楽府」といふ本二巻を、きちんとではないが教えさせていただいているが、このことも隠している。中宮様も隠されていたが、殿もお上も様子に気づかれて、漢籍などを立派に書家に書かせられて、殿は中宮様にさしあげられた。中宮様がこうしてわたしに漢籍を読ませられていることまでは、さすがに、あの口うるさい内侍も、聞きつけていないだろう。もし知ったら、どんなに悪口を言うかとおもうと、なににつけても世の中というものは煩雑でいやなものである。

 
『紫式部日記』をここまで読んできて、『源氏物語』のすさまじい肉迫力と、骨身をけずるような描写力は、類まれな詩魂と学才を持った、ひとりの容赦ない女流から必然的に生み出されたことを納得する。

〔52〕求道の願いとためらい  

 さあ、今は言葉を慎むのはやめよう。他人が、とやかく言っても、ただ阿弥陀仏を信じて、お経を習おう。世の中の厭わしいことは、すべて露ほども未練はなくなったので、出家しても、仏道修行をなまけることはない。ただそう思って出家しても、来迎の雲に乗らないうちは心が迷うこともあるかもしれない。そんなわけで、出家をためらっている。年齢も、出家に適したころあいになってきた。これ以上老いぼれては、目もかすんでお経も読めないし、心もおっくうになっていくから、信心深い人の真似のようだけれど、今はただ、仏道方面のことだけを考えている。それにしても、わたしのような罪深い人間は、必ずしも出家の願いがかなうとはかぎらない。前世の罪を思い知らされることばかり多いので、なにごとにつけても悲しいことだ。

 出家を望みながら、なお俗世を離れられない人間の宿命的な苦悩。これが後々「宇治十帖」で深く展開されることになるだろう。

〔53〕文をとじるにあたって  

 手紙にうまく書き続けられないことを、良いことでも悪いことでも、世間の出来事や、身の上の憂えでも、残らず言っておきたいと思います。いくら不都合な人を念頭において、申し上げたとしても、こんなことまで書き立ててよいのでしょうか。しかし、あなたもすることがなくて退屈でしょうから、どうかわたしの所在ない気持ちをご覧になってください。また、思っていらっしゃることで、こんな無益なことはたくさんなくても、お書きください。拝見いたしましょう。万が一この手紙がひと目に触れるようなことになったら、ほんとうに大変なことでしよう。世間の耳も多いことです。このごろはいらなくなった手紙もみんな破ったり焼いたりして捨ててしまい、雛遊びの家を作るのに、この春使ってしまってからは、人からの手紙もありませんし、紙にわざわざ書くまいと思ってるのも、人目に立たないようにしているからです。でもそれは悪い事情からではなく、意図してやったことです。この手紙をご覧になったら早くお返しください。あちこち読めないところや、文字の抜けたところがあるかもしれません。そういうところは、構いません、読み過ごしてください。このように世間の人の口の端を気にしながら、最後に書き終えてみると、わが身を捨てきれない未練な心が、こんなに深くあるものですね。われながら一体どうしようというのでしょうか。

 〔46〕人々の容姿と性格の「このついでに・・・・・・」からここまでが消息文といわれている部分である。しかし、この部分はだれかに宛てた消息と見るより、式部が率直な心情を吐露するために、その形式をかりただけと見たほうがいいだろう。

〔54〕御堂詣でと舟遊び 省略

[55]人にまだ折られぬものを  

 『源氏物語』が、中宮様のところにあるのを、殿がご覧になって、いつもの冗談を言い出されたついでに、梅の実の下に敷かれている紙に書かれた。  

 すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ  
 (浮気者と評判がたっているので、おまえを見る人で口説かないですます人はいないと思う)  

 という歌をくださったので、  

 人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけむ  
 (だれにもまだ口説かれたこともないのに、だれがわたしを浮気者などと言いふらしたのでしょう)  

 心外なことだと言った。  

 この段の年時については諸説ある。おそらく寛弘5年の記事が紛れこんだのだろう。  
 道長は、物語の世界でさまざまな恋愛を書く式部を実生活でも恋愛に精通したものとしてからかっているが、このからかいの中には式部を抱いてみたいという本音が混じっていると思う。

[56]戸をたたく人  

 渡り廊下にある部屋に寝た夜、部屋の戸をたたいている人がいると聞いたが、恐ろしいので、返事もしないで夜を明かした翌朝に殿から、  

 夜もすがら水鶏(くいな)よりけになくなくぞまきの戸ぐちにたたきわびつる  
 (昨夜は水鶏以上に泣く泣く槙の戸口で、夜通したたき続けたよ)  

 返歌  

 ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし  
 (熱心に戸をたたかれたあなただから、戸を開けたらどんなに後悔したことでしょう)

 
藤原道長は紫式部にとって尊敬できる人間味にあふれた殿であったが、このように夜更けに戸を叩いて、強引に肉体関係を持とうとする老醜の男でもあったのだ。

[57]若宮たちの御戴餅―寛弘7年正月  

 今年は正月三日まで、若宮たち(敦成あつひら親王、敦良あつなが親王)の御戴餅の儀式のために毎日清涼殿にのぼられる、そのお供に、みな上臈女房たちも参上する。左衛門の督(藤原頼通19歳)が抱かれて、殿が、お餅は取りついで、一条天皇に差し上げられる。二間の東の戸に向かって、お上が若宮たちの頭上にお餅をいただかせられるのである。若宮たちが抱かれてお上の前に参上したり退下されたりする儀式は見物である。母宮様はのぼられなかった。  
 今年の元日は、御薬の儀の陪膳役は宰相の君で、例の衣装の色合など格別で、実に素晴らしい。御膳を取りつぐ女蔵人は、内匠と兵庫が奉仕する。髪上げした容貌などは、陪膳役の方が格別りっぱに見えるけど、そのおつとめの胸中を察すると、わたしはたまらなくせつない気持ちになる。御薬の儀の女官の、文屋の博士(内裏女房、文屋時子)は、利口ぶって才ありげにふるまっていた。献上された膏薬(唐薬)が配られたが、それは例年行われることである。

 ※膏薬(皇薬)を忌んで唐薬という。正月3日に典薬寮から膏薬献上の儀があり、天皇はこれを右の薬指で額と耳の裏に塗る。式後人々にも配った。

[58]中宮の臨時客・子の日の遊び  

 二日、中宮様の宴はとりやめになって、臨時客が、東面の間をとり払って、例年のとおり行われた。列席の公卿たちは、傅(ふ)の大納言(藤原道綱)、右大将(藤原実資)、中宮の大夫(藤原斉信)、四条の大納言(藤原公任)、権中納言(藤原隆家)、侍従の中納言(藤原行成)、左衛門の督(藤原頼通)、有国の宰相(藤原有国)、大蔵卿(藤原正光)、左兵衛の督(藤原実成)、源宰相(源頼定)らが、向かい合って座っておられた。源中納言(源俊賢)、右衛門督(藤原懐平)、左(源経房)右(藤原兼隆)の宰相の中将は、長押の下手の、殿上人の上座に着かれた。殿が若宮を抱かれて出てこられて、いつもの挨拶を若宮に言わせたりして、可愛がられ、北の方に、「弟宮(敦良親王)を抱いてあげよう」と、殿が言われたのを、兄宮(敦成親王)がひどくやきもちを焼かれて、「いや」と駄々をこねられるのを、殿は可愛く思われて、あれこれなだめあやされるので、右大将などはおもしろがっていらっしゃる。  
 それから公卿たちは清涼殿に参上して、お上も、殿上の間に出てこられて、管弦の御遊があった。殿は、いつものように酔っていらっしゃる。わたしは避けたいと思って、隠れていたのに、「どうして、おまえの父は、わたしが御前の御遊びに呼んでやったのに、伺候もしないで急いで帰ったのか。ひねくれてる」などと、気分を害しておられる。「その罪が許されるほどの和歌を一首詠め。父親のかわりに。今日は初子の日だ。詠め、詠め」と責められる。すぐに歌を詠んだら、みっともないことだろう。ひどく酔っていらっしゃるので、ますます顔色が美しく、灯火に照らされた姿は輝き映えて素晴らしく、「ここ数年来、中宮が寂しそうな様子で、一人でいたのを、侘しく見ていたが、このようにうるさいほどに、左右に若宮たちを拝見するのは嬉しいこよ」とおっしゃって、お休みになっている若宮たちを、帳台の垂絹を何度も開かれては見ておられる。「野辺に小松のなかりせば」と口ずさまれる。新しく歌を詠まれるより、こういうときにぴったりの歌を出してこられる、殿の様子が、わたしには立派に思われた。  

 ※子の日する野辺に小松のなかりせば千代のためしになにを引かまし(「拾遺集」春、壬生忠岑)  

 二皇子を得た道長の喜びに式部も共感している。

〔59〕中務の乳母  

 つぎの日の、夕方、早くも霞んでいる空を、幾重にも建ち並んだ殿舎の軒が隙間もないので、ただ渡り廊下の上の空をわずかに眺めながらだが、中務の乳母(中宮女房、源隆子)と、昨夜の殿が口ずさまれたこと(野辺に小松のなかりせば)をほめあう。この命婦は、ものの道理をわきまえた、よく気がきくお人です。  

 敦良親王の乳母である中務の命婦にとっても、道長が「野辺に小松のなかりせば」と口ずさんだことは当然嬉しいことだった。

〔60〕二の宮の御五十日―正月十五日

 ほんのちょっと里に帰って、二の宮(敦良親王)の御五十日のお祝いは、正月十五日なので、その明け方に参上したが、小少将の君(源時通の娘)は、すっかり夜が明けた間が悪いほどのころに参上された。いつものように同じ部屋にいた。二人の部屋を一つに合わせて、一方が実家に帰っているときもそこに住んでいる。一緒にいる時は、几帳だけを仕切りにして暮らしている。殿はお笑いになる。「お互いに知らない男でも誘ったら、どうするつもりだ」などと、聞きにくいことを言われる。でも、ふたりとも、それほどよそよそしくないので、安心である。  
 日が高くなってから中宮様のもとに参上する。あの小少将の君は、桜の綾織の袿に、赤色の唐衣を着て、いつもの摺裳をつけておられた。わたしは紅梅の重袿に萌黄まの表着、柳襲の唐衣で、裳の摺り模様なども現代風で派手で、とりかえたほうがよさそうなほど若々しい。お上付きの女房たち17人が、中宮様の御方に参上した。弟宮の陪膳役は橘の三位(内裏女房、橘仲遠の娘徳子)。取次役は、端の方に小大輔(中宮女房)、源式部(中宮女房)、内には小少将の君が奉仕する。  
 帝と、中宮様とが、御帳台の中にお二人で一緒におられる。朝日がさして光り輝いて、まばゆいばかり立派な御前の情景である。お上は、御引直衣に小口袴を着用され、中宮様はいつもの紅の袿に、紅梅、萌黄、柳、山吹の袿を重ねられ、上には葡萄染めの織物の表着を着られ、柳襲の上白の御小袿の、紋様も色合いも珍しく当世風なのを着ておられる。あちらはとても目立つので、わたしはこちらの奥にこっそり入りじっとしていた。
 中務の乳母が、弟宮を抱かれて、御帳台の間から南面の方に連れて行かれる。よく整っていてすらりとはしていない容姿で、ただゆったりと、重々しい様子で、乳母として人を教育するのにふさわしい、才気の感じられる雰囲気がある。葡萄染めの織物の小袿と、紋様のないの青色の表着の上に、桜襲の唐衣を着ていた。  
 その日の女房たちの衣装は、だれもかれもが華麗を尽くしていたが、袖口の色の配色のよくない人でも、御前の物を受け取る時に、大勢の公卿たちや、殿上人たちに、袖口をまじまじと見られてしまったと、あとになって宰相の君なども、悔しがっていらっしゃったようだ。とはいっても、それほど悪いというほどでもなかった。ただ色の取り合わせが引き立たなかっただけだ。小大輔は、紅の袿一重に、上に紅梅の袿の濃いのや薄いのを五枚重ねていた。唐衣は、桜襲。源式部は濃い紅の袿に、さらに紅梅襲の綾の表着を着ていたようだ。唐衣が織物でなかったのをよくないとでもいうのだろうか。でもそれは禁色だから無理というもの。公の晴れの場でこそ、過失がはた目にちらりと見えた場合なら、批判されてもよいだろうが、衣装の優劣は身分上の制約もあることだから言うべきではない。  
 弟宮にお餅を献上なさる儀式なども終わって、御食膳なども下げて、廂の間の御簾を巻き上げる、そのそばにお上付きの女房たちは、御帳台の西側の昼の御座の向こうに、重なるようにして並んでいた。橘三位の君をはじめとして、典侍たちも大勢参上していた。  
 中宮付きの女房たちは、若い人々は廂の長押の下手、東の廂と母屋の間の南側の襖を取り外して御簾をかけてある所に、上臈の女房たちは座っていた。御帳台の東側の隙がわずかにあいてる所に、大納言の君や小少将の君が座っていらっしゃる、そこにわたしは訪ねていって祝宴を拝見する。  
 お上は、平敷のご座所につかれ、御食膳が差し上げられ並べられた。お膳の調度や、飾りつけの様子は、言いようがないほど立派である。縁側には、北向きに西の方を上座にして、公卿たちは、左・右・内の大臣たち、東宮の傅、中宮の大夫、四条の大納言と並び、それより下座は見ることができなかった。  
 管弦の御遊が催される。殿上人は、こちらの東の対の東南にあたる廊に伺候している。地下の席は決まっている。景斉の朝臣、惟風の朝臣、行義、遠理などというような人がいた。殿上では、四条の大納言が拍子をとり、頭の弁が琵琶、琴は□(不明)、左の宰相の中将が笙(しょう)の笛ということである。双調の調子で、「安名尊(あなとうと)」、次に「席田(むしろだ)」「此殿(このとの)」などを謡う。楽曲は、鳥の曲の破と急を演奏する。戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く。歌に拍子を打ち間違えて、とがめられたりする。つぎに「伊勢の海」を謡う。右大臣は、「和琴が実に見事だ」などと、聞きながらほめられる。戯れておられたようだが、そのあげくにひどい失態をされた気の毒さは、見ていたわたしたちも体がひやりとしたほどだった。殿からの帝への献上物は、横笛の「歯二(はふたつ)」で、箱に納めてられて差し上げられたと拝見した。  

 ※右大臣藤原顕光が酔って御膳の鶴の飾り物を取ろうとして折敷をこわしてしまったことをさす。(御堂関白記)  
 ※笛は道長が、去る11日に花山院御匣殿(みくしげどの)から賜った名笛である。

以上、『紫式部日記』読破。
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